現代における小学校のように、誰もが通える公的な教育機関がなかった江戸時代。庶民の子どもたちの学び舎として、地域の教育を支えていたのが「寺子屋*¹」です。
その多くを運営していたのは地域に根ざした身近な「手習(てならい)師匠」。子どもたちや父母は手習師匠に尊敬の念を抱き、地域全体でその生活を支えたといいます。
ほかにも江戸時代には、互助の精神をベースに地域で子どもを育てる仕組みが多数存在していました。それらは、少子化や核家族化、個人主義によって地域コミュニティが希薄になりつつある現代にこそ、見直されるべきものかもしれません。
江戸時代の庶民教育の研究者である小泉吉永さんに、寺子屋を含めた当時の子ども教育の実態や役割をうかがい、「地域で支える学び」のあり方を探ります。
*1 「寺子屋」という呼称は、近年の学会・研究者のあいだでは「手習塾」「手習所」などへの言い換えが進み、庶民教育機関の一般名称としては使われなくなりつつあります。ただし、学術界以外では依然として広く定着していることから、本稿では一般的に広く知られた「寺子屋」の呼称をそのまま使用しています。
目的は「一人前の大人になること」。寺子屋以外にもあった、地域の学びの場
―まずは江戸時代の庶民の暮らしについて教えてください。当時の暮らしのなかで、「教育」はどのように位置付けられていたのでしょうか。
小泉
江戸時代の庶民といっても、その暮らしは一様ではありません。都市部と農村部では生活環境が大きく異なっていました。都市部に多く暮らしていたのが商人や職人、農村部には農民。どちらも子どもたちは親の家業を見て育ち、6歳前後になると寺子屋などで手習い(読み書き)をはじめます。
手習いを終えてすぐ奉公*2に出される子もいれば、家業に従事する子もいます。地域に残る子どもは、現在の中学生くらいの年齢から「若者組」や「娘組」といった年齢集団に加わり、地域独自の集団教育を受けるのが一般的でした。江戸時代の庶民にとって、教育とは「年齢に応じて、社会のなかで役割を身につけていく過程」そのものでした。何歳になったらどんな力が求められるのか、どの集団に属するのかといったことが、ある程度、地域社会の共通認識として存在していたのです。
*2 奉公:他人の家や商店に雇われ、住み込みで家事や商売(家業)に従事すること
―「若者組」や「娘組」とはどんな集団で、どのような教育が行われていましたか?
小泉
若者組は地域の防犯・防火・祭礼などを中心として活躍していました。娘組は、将来の結婚や家庭生活に向けた準備として、裁縫や家事を教え合う。どちらも、ある一定の年齢になれば全員が参加する自立した年齢集団であり、地域コミュニティにおいて重要な役割を担っていました。集団生活を通じて、年長者が年少者に社会の規律や地域での役割を教えるほか、成長とともに変化する心身のあり方、大人になるための大切な知恵についても折に触れて伝えていました。
―つまり、幼少期からの「手習い」で読み書きを、思春期からの「集団教育」でマナーや地域のルール、上下関係といった生き方を学んだわけですね。
小泉
そうですね。多くの庶民にとって学問の目的は、「一人前の大人になること」でした。
一人前の大人とは、まずは親孝行や家業を継ぐこと、あるいは奉公人であれば主人に対する忠義を尽くすこと。そして、社会の秩序や地域の掟を守ることでした。そのため、最低限の「読み・書き・算盤(そろばん)」以外は、家業の習得や一人前の大人としてのふるまいができるようにする教育が重視されました。当時は身近な場所に模範となる先輩や大人が存在し、子どもたちはそうした人たちと接しながら成長していったんです。
江戸時代、子どもたちが寺子屋で学ぶイメージイラスト
小泉
また、地域の指導者となる庄屋や名主の子どもの場合は、通常の手習いとは別に独自の英才教育も行われました。彼らは将来、村をまとめる重責を担います。そのため、早いうちから地域の人たちとのかかわり方を勉強するんです。岐阜県のとある庄屋では、子どもが手習いをはじめた6歳(満年齢の4~5歳)から、親の代わりに親戚への正月の挨拶回りにひとりで行かせたと記録されています。
―将来を見据え、各自が必要な経験や知識を習得していったわけですね。ちなみに、「読み・書き・算盤」は、商人や職人だけでなく農民にも必須だったのでしょうか?
小泉
算盤はともかく、読み・書きは必須でした。社会生活において文字が読めないことには不自由極まりなく、特に江戸時代後期になると社会生活や家庭生活においても文字の読み・書きが不可欠な時代となっていきました。
たとえば、地域の安定を図るために街中に立てられた高札(こうさつ)には、法令や禁令が記されていましたので、文字が読めないと話になりません。また、離縁する場合の三行半(みくだりはん / 離縁状)は夫に文書作成の義務が課されていましたし、交際上でも取引上でも読み書きができなければ不都合が生じました。
さらに、江戸時代後期には庶民向けの読みものが数多く出版されました。こういった書物は誰もが気軽に購入できるほど安価ではなかったので、手習師匠や近所の家、あるいは貸本屋などから借りて一冊丸ごと筆写することも珍しくありませんでした。裕福でなくても、人生を豊かに生きるために、読み書きは欠かせないものとなっており、子どもたちの周囲には文字があふれ、言葉遊びなども豊富でした。実際、同時代の諸外国と比べても、日本の識字率はかなり高かったとされています。
なお、寺子屋教育における優先順位は「書き・読み・算盤」の順番です。寺子屋では「書き(習字)」に大半が費やされ、「読み」は時々指導が行われ、「算盤」はまったく教えない寺子屋もありました。
「御集手本(おあつめてほん)」の一部。天保3年(1832年)に筆写された、名頭字(人名用の漢字集)や離縁状、そのほかの実用的な書簡文をまとめた江戸時代の往来物(教科書)(画像提供:小泉吉永さん)
地域で尊敬を集めた「手習師匠」。無償でも成り立つ互助の仕組み
―庶民の子どもの手習いの場所である「寺子屋」は、誰がどのように運営していたのでしょうか?
小泉
寺子屋は現代の小学校のような、制度化された公的な教育機関ではありません。地域の教育熱の高まりによって、自然発生的に成立したものです。その多くは民間の「手習師匠」が運営していました。
特別な資格は必要なく、多くは庶民出身です。なかには「暇があるから」と隠居後にはじめる高齢者もいれば、寺社の関係者や医者などが片手間に寺子屋を開業することもありました。報酬のあり方もさまざまで、寸志程度の謝礼を受け取る場合もあれば、無償で運営するケースもありました。都市部では寺子屋が充実していた一方、農村部では寺子屋が一軒もない地域もあって、農閑期などに手習師匠がそうした村々を巡回していた例もあります。
寺子屋の多くは営利目的ではないため貧しい師匠も多かったのですが、地域住民が日々の飲食や宿を提供するなど、師匠の生涯を一丸となって支えた例もありました。
子どもたちは寺子屋卒業後も師匠を尊敬し、人生の節目ごとに師匠のもとを訪れ、進路や生き方について相談したり、結婚など冠婚葬祭の際に挨拶に出向いたりするなど、その関係は親子かそれ以上だったといいます。師匠が亡くなれば教え子(筆子)たちが協力して墓を建てたり、師匠の徳を称える顕彰碑(筆子塚)を建立したりしました。全国各地に残る無数の筆子塚は、手習師匠がいかに尊敬され、地域に感謝されていたかを物語っています。
埼玉県所沢市北野天神社にある「沢田泉山翁碑」(画像提供:小泉吉永さん)
―システムではなく、尊敬や感謝をベースにした人間的なつながりによって教育が成り立つ。現代ではなかなか考えられないことですね。
小泉
そうですね。それを裏付けるデータが残っています。
大正初年、教育学者の乙竹岩造は、実際に寺子屋で学んだ経験のある古老たちを対象に、寺子屋教育の実態調査を実施しました。それによれば、手習師匠が「優秀だった」と答えた人は56%に留まる一方、「寺子(子ども)が師匠を尊敬していた」は97%、「父母が師匠を尊敬していた」は87%にも上っています*3。
*3 乙竹岩造『日本庶民教育史』(昭和45年複刻、臨川書店)下巻1123頁以下
出張して教えていた手習師匠が、村人たちから手土産をもらっているイメージイラスト
―優秀であることと尊敬は別であると。当時の地域における、手習師匠の存在の大きさがうかがえますね。ちなみに、現代の小学校のように共通のカリキュラムがあるわけではなく、寺子屋によって教育スタイルや学習内容は異なるのでしょうか?
小泉
制度ではないため、教育内容はまちまちでした。一方で、共通点もあります。それは「染み込み型」の学習スタイルです。寺子屋は小学校のように教師が全生徒に向けて一斉に教えるのではなく、基本は個別教育。そして、まずは教師が模範を示し、そこから子どもたちが自然と学びを得ていく。手本を見て、真似し、繰り返すなかで、学びを少しずつ自分のものにしていく。いわば、樹木を育てるように時間をかけて成長を促す教育スタイルです。
「染み込み型」の教育は、短期間で多くの知識を教えることを目的としたものではないため、効率よく知識を教え込むことには向きません。一方で、個人のペースで時間をかける分、学びは深く、身体に染み込んでいきます。知識を効率よく教え込む西洋的な「教え込み型」とは異なり、子ども自身の理解や成熟を待ちながら進めていく点に、日本の教育のひとつの特徴が表れていると思います。
―当時の日本で、「染み込み型」がスタンダードになっていた理由を教えてください。
小泉
当時の日本人は「博学な子ども」よりも、「一人前の人格を備え、一人前の仕事ができる子ども」を育てることを重視していました。そのため、知識をどれだけ習得したかよりも、日々の暮らしや仕事のなかで、態度や所作を含めて身につけていくことが大切にされていました。時間をかけて学びを染み込ませていく教育のあり方は、そうした価値観に基づいてかたちづくられていったのでしょう。
―寺子屋には学年やクラスわけなどもなく、ひとつの部屋でいろいろな年齢の生徒が学んでいたのでしょうか?
小泉
年齢による区わけはなく、学習期間も学習内容も個別が基本でしたが、習熟度に応じて日々の学習量は増えていきました。また、寺子屋内にはいわゆる級長的な存在や毎日の当番などもあったほか、上級生の「兄弟子」が下級生の面倒を見ることも多々ありました。師匠が不在の場合は年長者が教場をまとめ、太陽の日差しや鶏の動き(鷄小屋に戻るなど)で学習終了時刻の目安としていたようです。特に厳しい寺子屋では、兄弟子の課題が終わるまで、全員が自分の席で正座して待っていなくてはならなかったといいます。
―下級生にとっては忍耐を覚える場でもあったわけですね。
小泉
とはいえ、寺子屋そのものは大変賑やかで楽しい雰囲気だったようです。子どもたちは一番乗りを競って早朝から寺子屋を訪れ、手習師匠をたたき起こすようなこともあったようです。教場に入ると、各々が自分の座机(天神机)を出して学習(習字)をはじめました。
ちなみに、ある寺子屋では「放課後は寺子屋の前でどれほど大騒ぎしても構わない」として、元気があり余る子どもが発散できる場を意識的につくっていたようです。
『絵本教之種』に掲載されている、寺子屋の様子(画像提供:小泉吉永さん)
「わが子」ではなく「地域の子」。村人同士が協力し合い子どもを一人前にする
―寺子屋のほかに、江戸時代ならではといえる教育の仕組みはありますか?
小泉
江戸時代後期の農政学者であり、農民たちの指導者でもあった大原幽学(ゆうがく)は、地域の子弟教育としてさまざまな実践を行いました。そのひとつが、天保12年から現在の千葉県旭市ではじまった「子ども大会」という集団訓練です。地域の子どもたちが親元を離れ、幽学の高弟*4の家で合宿をしながら、さまざまな生活指導や農業の基本、礼節などを学ぶというものです。
また、そこから発展したのが、「替え子(換子)教育」です。これは、成人前の子どもを地域内の家庭で一定期間「交換」し合うという取り組みで、貧しい家の子どもは裕福な家に、裕福な家の子どもは貧しい家にと、生活環境の異なる家にあえて預け、数年が経過したら、また別の家に預けて育ててもらっていました。
*4 高弟:多くの弟子のなかで特に才能が優れている、あるいは師匠から高く評価されている「一番弟子」や「すぐれた門人」を指す言葉
―子どもの交換……。とても斬新な取り組みですが、どんな狙いがあったのでしょうか?
小泉
発想の根幹には、『孟子』の「君子はわが子を教えない」という考え方があったと思われます。親は愛情を注ぐ存在である一方で、教育は善悪を示す役割を担うもののため、両者をあえてわけたほうがよい、という発想です。
「親の溺愛」と「子の甘え」を遮断することで、子どもを一人前にしようという狙いがあったのだと思います。替え子教育は、親への教訓的な意味合いもあり、「わが子」ではなく、「村の子」「地域の子」として子どもを見る意識を持たせる試みでもあったようです。
いずれにせよ、このような取り組みが成り立つのも、寺子屋や若者組、娘組、奉公先など家庭以外の社会のさまざまな人間関係のなかで子育てを行うことが当たり前だった、江戸時代ならではだと思います。
―話を聞けば聞くほど、江戸時代には地域の互助の仕組みがきちんと機能していたことがうかがえます。
小泉
そうですね。地域社会は助け合いであり、何人も見捨てないという精神は、現代よりもずっと強かったのではないでしょうか。
その象徴といえる仕組みが「あやまり役」です。寺子屋や若者組において子どもが掟を破り、師匠あるいは年長者から厳しく叱責を受けた際、それがエスカレートしないよう、頃合いを見て第三者である「あやまり役」が仲裁に入る。そして子どもと一緒に謝罪をすることで、その場を収めるのです。
罪を許された子どもは、「今後はあやまり役に迷惑をかけないよう、気をつけよう」と自らの行いを心から反省する。いわば、過ちを犯した者を孤立させず、社会へ復帰させる知恵であったともいえます。
「あやまり役」が生まれた背景には、「若いうちは誰もが過ちを犯すもの」という価値観があったのではないでしょうか。もちろん、当時は厳しい叱責や体罰もありましたから、江戸時代の教育がすべてにおいて理想的だったというつもりはありません。しかし、過ちを個人だけの問題として切り離すのではなく、地域のなかで引き受け、立ち直りの道筋をつくろうとする発想は、現代の私たちにも見習うべきところがあるはずです。
子どもがあやまり役と一緒に手習師匠に謝罪をするイメージイラスト
―江戸時代のように互助の仕組みを機能させ、地域で子どもを育てる力を持つ。個人主義や自己責任論が重視される現代ではなかなか難しいことだと思いますが、先人たちの思想や施策を時代に沿うかたちで、いまの教育や地域づくりに取り入れたいですね。
小泉
前提として、江戸時代において地域社会の関係性が強かったのは、「そうしなければ、まともに生きていくことが困難だった」という側面があります。互いに支え合わなければ生き抜けない環境だったからこそ、さまざまな人々とかかわる機会が増え、地域社会で子どもを育てる土壌ができていったのだと思います。
現代は、少なくとも平時は地域と深くかかわらずとも生きていける時代ですから、当時のような強固な共同体をそのまま再現することは難しいかもしれません。
それでも、まずは「顔の見える関係づくり」からはじめるのはいかがでしょうか。向こう三軒両隣のように、身近に助け合える関係が少しあるだけでも、地域は変わってくると思います。子どもにとっても、地域のなかで小さい頃から顔を合わせ、関係を育んでいくことは、失敗を孤立に変えないための土台になり得るでしょう。
互いに協力しながら関係を重ねていく。そうした積み重ねが、個人が孤立しない地域社会をつくり、次の世代を育てる力につながっていくのではないかと思います。
この記事の内容は2026年6月16日掲載時のものです。
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Credits
- 取材・執筆
- 榎並紀行(やじろべえ)
- イラスト
- 瀬知エリカ
- 編集
- 篠崎奈津子(CINRA, Inc.)