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過疎や孤立を乗り越えるヒントは縄文時代に?1万年続いた「ムラ」の共助の精神

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縄文時代のムラのイラストに「歴史に学ぶ地域づくりシリーズ」と記載したイメージ

大きな戦争も混乱もなく、1万年以上にわたって人々が平穏な暮らしを営んでいた——。

そんな、世界的にも特異な状況が続いた時代といえるのが、日本の縄文時代です。縄文人は「ムラ」という小規模なコミュニティをつくり、自然とうまく折り合いながら、長期的な安定を実現していました。

一方、現代の地域社会は、過疎化やコミュニティの希薄化、地域運営を支える担い手不足といったさまざまな課題に直面しています。暮らしを長く守り続けるために、縄文時代の考え方や生活様式から現代に生かせる知恵はあるのでしょうか。武藤康弘さんに、縄文時代の「ムラ」が長く続いた理由をうかがいながら、現代にも通じる地域づくりのヒントを探ります。

定住が生んだ30〜50人の「ムラ」。労働や水場から見えるコミュニティ

縄文時代の人々は「ムラ」と呼ばれる小さなコミュニティを築き、互いに協力し合いながら暮らしていたと聞きます。そもそもムラとはどのように生まれたのでしょうか?

武藤

縄文時代は、1万5,800年ほど前から2,400年ほど前まで、1万年以上にわたって続いた非常に長い時代です。

そのなかで「定住」がはじまったのが、およそ1万2,000年前頃。地球温暖化で植物が豊富に採れるようになり、人々が大地の上に竪穴住居をつくって暮らすようになったのがムラの起こりです。

初期のムラには、全体で30〜50人くらいが集まっていたと考えられます。漁労も狩猟も一人ではできず、集団で動かないと猪や鹿は獲れませんからね。

基本は竪穴住居を拠点に、春から秋にかけては漁や狩りをする人たちだけが海や川に近い場所でキャンプを張り、冬はまた住居に戻ってくる。定住がはじまった当初の縄文時代では、そんな暮らしが営まれていたのではないかと考えられます。

ムラのなかではどのような役割分担があり、どんな生活やコミュニティが育まれていましたか?

武藤

縄文時代の暮らしには明確な役割分担があり、「漁労」や「狩猟」は主に男性が、「土器づくり」や「かごづくり」は主に女性が担っていたと考えられています。

たとえば男性は、若年のうちから年長の男性たちと一緒に狩りに出て技術を学んだり、鏃(やじり)など狩猟道具の製作や管理、罠づくりなどをしていました。一方、女性たちは木の実のアク抜きなどの食品加工を担いながら、土器や編みかごの製作をしていたようです。

ムラに竪穴住居が並び、縄文人が土器や狩猟道具をつくったりしている様子

縄文時代のムラのイメージイラスト

武藤

また、ここ20年ほどの調査で、湧き水が出る場所に「階段状の水場」がつくられていたことがわかっています。一番上の水場では木の実などの食料の処理、下では木の実や木の皮の繊維の水さらしなど、用途別にわけられていて、それぞれの用途に合わせて皆が水を使いにやって来るんです。こうした水場があったことから、ムラの人々が集まって作業や会話をするなど、日常の作業場が自然とコミュニティを維持する場所になっていたと推察されます。

まさに井戸端会議のようなことが、当時から行われていたのですね。そうした日常の作業は、一年を通じてずっと同じように行われていたのでしょうか?

武藤

季節に応じて、労働力を投下する先は変わっていたようです。

考古学者の小橋達雄さんが考案した「縄文カレンダー」によると、春〜夏の貝や魚がたくさん獲れる時期には漁労に、冬場は猪や鹿の狩猟に集中していたそうです。そして、獲物が痩せて食糧も得にくくなる夏は家づくりや土器づくりに時間をあてるなど、うまく季節のサイクルを回していたのでしょう。

縄文時代前期の縄文土器。赤褐色で、上部が左右に開いた細長い形をしていて、表面に縄目文様がある

青森県で出土した縄文時代前期(約7,000年前)の縄文土器(画像提供:武藤康弘さん)

春夏秋冬が反時計回りに循環する矢印の中に、村を中心とした円が描かれ、季節ごとに採取できる食料や仕事のイラストを配置した縄文カレンダー

多摩市史 通史編1[第四編 原始および古代|第二章 縄文時代|第六節 多摩丘陵の先住者 その生活と文化]図4-22 縄文カレンダー(小林達雄氏原図)。春は漁労、冬は狩猟、夏は土器作りなど、季節の恵みに合わせた縄文人の1年の労働サイクルを表している(多摩市所蔵資料)

困っている人、弱い人を排除しない。縄文のムラの「助け合いの精神」

住居のなかでは、どのような家族構成で暮らしていたのでしょうか?

武藤

一つひとつの竪穴住居には血縁上の家族で暮らすのが基本でしたが、なかには別のムラからやってきた「流れ者」を居候のようなかたちで住まわせるケースもあったようです。現代の私たちの家族のイメージからすると不思議に思えますが、それが本来のムラの姿だったと考えられます。

よく博物館などの復元展示に行くと、ひとつの竪穴住居に「お父さん、お母さん、子どもが2、3人」という様子が描かれていますが、あれは昭和の「核家族」のイメージが投影されているだけで、実際はいろいろな人がひとつの住居にぎゅうぎゅうに住んでいたので全然違うんですよ。

素性の知れない人と同居していたというのは、現代の感覚からすると信じがたいというか……なかなかすごいことですね。

武藤

シンプルにいえば、助け合いですよね。縄文人は、「家がなくて困っている人がいたら助けてあげよう」という意識を当たり前に持っていたのでしょう。

北海道のアイヌ文化でも流れ者を受け入れる慣習がありましたし、私自身もモンゴルの遊牧民や昔行った日本の山奥の調査の際、現地の方々に大歓迎で泊めてもらった経験があります。かつての社会には、そうした寛容な土壌がごく自然にあったんです。

また、貝塚の遺跡からは、そうした縄文人の「共助の文化」を表す痕跡も見つかっています。たとえば、富山県の小竹貝塚では、大腿骨の骨折が治癒した痕跡のある50〜60代の壮年男性の骨が見つかりました。治癒痕跡があるというのは、「怪我をして歩けない状態の人を周囲が世話していた」ということを意味します。

また、北海道の入江貝塚からは、ポリオあるいは筋ジストロフィーによって手足が鳥のように細くなった青年の人骨が見つかっています。おそらく幼少期から骨が細くて動くことができなかったであろう人を20年ほど、周りの人がケアしていたのでしょう。怪我人や障がい者を支える、現代の福祉にも似た営みが、縄文時代からすでにあったんですね。

現代では核家族化が進み、地域から孤立した子育てに悩む親も少なくありません。そうしたケアや「助け合い」の精神は、縄文時代の子育てにも表れていたのでしょうか?

武藤

そうですね。当時の子育て世代のお母さんたちは日常の食品加工などの作業で忙しい反面、一緒に住んでいるおばあちゃん世代はそうした労働から解放されていました。

そのため、おばあちゃんたちが育児のアドバイスをしたり、孫に直接、土器やかごづくりを教えたりして、家族やムラの「縦のつながり」のなかで子育てが行われていたんです。

また、興味深いことに、赤ちゃんの足形をとった「土版」も見つかっているんですよ。縄文時代も現代と同じように、親が子どもの成長を喜んでいた様子がうかがえます。

竪穴式住居の内部で、縄文人の親子が赤ちゃんの足形をとっている。背景には土器やたき火がある

縄文人が赤ちゃんの「土版」を取っているイメージイラスト

意外でした。縄文時代というと、「毎日が生きるか死ぬかのサバイバル。自分のことが最優先で、福祉などは二の次」といったイメージもあったので。

武藤

縄文時代は常に生存競争に明け暮れ、人々の関係性もギスギスしていた野蛮な時代……というイメージもあるようですが、まったくの誤解なんです。

もちろん、現代とは比較にならないくらいさまざまなリスクや大変なことがあったと考えられますが、それでもお互いに思いやりをもって助け合い、さらには縄文土器のような工芸品に、あれだけの時間と労力をかけられる。多くの人が、そんな心の余裕を持っていたのではないかと思います。

また、最近の調査では、縄文人が私たちが想像する以上に長生きしていたこともわかってきています。実際に50代や60代の人骨も見つかっており、それだけ当時の日本列島が豊かな自然環境に恵まれ、人々が安定して暮らせていた証といえますね。

人口増加につれ、「ムラ」から「社会」へ

縄文時代も中期以降になってくると、少しずつ大規模な集落が増えていきます。規模が大きくなるにつれ、コミュニティのあり方も変わっていったと考えられますか?

武藤

縄文時代中期までは、極端に大きなお墓があったり、副葬品として特別に貴重なものが出土したりといった例はほとんど見られません。そのため、富や権力による明確な身分差はないと考えられています。

人口規模が大きくなると、さまざまな「公共事業」も必要になってきます。たとえば、縄文時代の後期・晩期に見られる大型の環状列石(ストーンサークル)※。あれをつくるには、かなりの労働力が必要です。おそらく、複数のムラが統合して事業を行ったり、生活をともにしたりといったこともあったのでしょう。

また、後期から晩期になると、集落からやや離れた場所に、数十から百を超える数のお墓が密集した集団墓地がつくられるようになります。長さ1.2メートルほどの小判型で、かたちや規模はほぼすべて一緒であることから、縄文時代に突出した地位の人がいたとは考えにくいとされています。

一方で、副葬品をみてみると、お墓によっては翡翠の玉が添えられていたり、石棒や石剣・石刀と呼ばれる細長い石製の指揮棒のようなものが入っていることがあります。このことから、縄文時代も終わりごろになると、持つ者と持たない者の差が生じはじめたことがわかります。

※縄文後期〜晩期につくられた環状の石列。祭祀や季節観測の場とされている

上空から見た環状列石

青森市野沢字にある小牧野遺跡の環状列石。つくるには多くの労力を必要とすることから、複数のムラが共同で作業を進めていた可能性も推定できる(青森市教育委員会所蔵)

石槍や勾玉など副葬品の数々

青森県五所川原市の五月女萢(そとめやち)遺跡から出土した石器や石製品。良好な保存状態のもとで縄文時代の様子を伝えている。(画像提供:五所川原市)

武藤

やがて稲作がはじまると、農耕に大規模な労働力を投入するための指導力や政治的な力が必要になってきます。そうやって少しずつ「ムラ」から「社会」へと変わっていったのではないかと思われます。

階層化が進めば権力争いも生まれ、平和な縄文時代も終焉に向かうと。

武藤

そうですね。実際、弥生時代になると、縄文時代にはほとんどなかった「戦争の痕跡」が見られるようになります。撲殺された人間の骸骨や、大量虐殺の痕跡も出てくる。権力争いだけでなく、稲作によって土地や水をめぐる争いも頻繁に起こっていたのではないでしょうか。

いまこそ縄文時代に学びたい、地域づくりのヒント

―1万年以上続いた縄文時代ですが、歴史的に見ても稀有なほど長く成り立っていた背景には何があるのでしょうか?

武藤

先ほど紹介したように、稲作がはじまっておらず大きな身分差がなかったこともありますが、大きな背景として当時の日本列島の恵まれた自然環境があったことも挙げられます。海の幸や山の幸が豊富で、外からの侵略もないため安定的に生活できる。人口も少ないため、食料の奪い合いも起こらない。ある研究者は、最も人口が多いとされる縄文時代晩期で26万人程度(いまの鳥取県の半分ほど)だったと推計しています。

共助を尊ぶ縄文人の精神性は、「人口に対して十分すぎるほどの恵みがある」という心の余裕によって育まれたものではないでしょうか。

現代の日本では少子高齢化が進み、コミュニティの維持が課題になっています。こうした現代の地域づくりにおいて、縄文時代のムラから得られるヒントはありますか?

武藤

縄文時代のムラと、現代の地方の小規模コミュニティを比較したとき、最も大きな違いは「子どもや若者がいるか・いないか」だと思います。

いまは若者が地元を離れて都市部に出ていくと、地域には戻ってこないことがほとんどです。ムラで育った子どもがそのままコミュニティの担い手になる縄文時代とは正反対ですよね。その結果、コミュニティの活力が急速に失われていくんです。

ですから、現代において地域コミュニティを維持していくには、まず「子どもや若者が地元に居続けたいと思える環境」をいかにつくっていくかが重要になります。縄文時代におばあちゃん世代が孫に技術を教えていたように、「家族の縦のつながりや地域全体で子どもを育てていく」という環境も重要なキーになるでしょう。

生活様式の見直しとは、具体的にどういったことでしょうか?

武藤

たとえば、生活に必要な機能が小さな範囲にまとまっている「コンパクトなまちづくり」がひとつの鍵になると思います。

医療・買い物・仕事・子育てといった基本的な活動が身近で済むように、生活導線そのものを見直す。そのうえで、情報通信や移動支援、ドローンを使った配達のシステムなど、テクノロジーをうまく使うことで、人口規模の小さな地域でも暮らしが成り立ちやすくなるのではないでしょうか。また、自然豊かな場所で安定した生活と教育が受けられるのであれば、地元に戻って子育てしたいと思う若い人も少なくないはずです。

未来の地域で人々が暮らしている様子。空にはドローンが飛んでいて街には自動運転バスが走っている。農業をしている人や子どもたち、PCを使って仕事をしている人がいる

縄文時代にならって生活様式を見直した、未来の理想的な地域の姿のイメージイラスト

実際に、そうした動きが見られる地域もあるのでしょうか?

武藤

たとえば、奈良県の東吉野村では、人口自体は減少しているものの、大きいアトリエが欲しい木工作家やアーティストなど若い移住者を積極的に受け入れることで、若年人口が維持できています。

また、鹿児島県・トカラ列島のある離島では、人口約80人の島で子どもが20人ほどいるそうです。自然の中でのびのび子育てしたい家庭など、多様な背景をもつ人々を受け入れ、小規模ながら活気あるコミュニティを維持しています。こうした、都市部から離れた自然に囲まれた小さな離島であっても、暮らし方の工夫や受け入れの姿勢しだいで、持続可能なコミュニティが成立しうることを示すよいヒントですね。

本来、地域の暮らしは自分たちのコミュニティのなかで完結していて、日常の導線もコンパクトでした。しかし現代では開発が広がり、生活圏が拡散することで中心部が空洞化してしまう例も少なくありません。

テクノロジーが進化しているいまだからこそ、もう一度「身近な範囲」で暮らしが循環する地域のあり方を考える必要があるのかもしれません。

そのうえで、縄文時代から現代の私たちが学ぶべき考え方は何でしょうか?

武藤

縄文時代に学ぶことがあるとすれば、やはり「足るを知る」ということではないでしょうか。

決して乱獲はせず、あくまで必要な分だけを狩る。魚も、卵を持っているメスは獲らない。「自分たちが生きるための恵みを自然からいただいている」という謙虚な気持ちを持つことが大事です。そうすれば、おのずと自然に対する畏敬の念も生まれてくるでしょう。

日本の「自然界のあらゆるものに神々が宿る」という八百万(やおよろず)の精神や自然に対する信仰心は、縄文時代から組み込まれているのだと思います。過剰な乱獲をすれば、結果的にしっぺ返しをくらうのは私たちです。「足るを知る」を自然から学び、いただいた恵みは独り占めせずみんなでわけ合う。縄文時代のムラにはそんな豊かな精神性が根づいていたんです。

遺構から復元された、茅葺き屋根の高床倉庫と竪穴住居

青森市の三内丸山遺跡に復元された縄文時代の建物群

現代の私たちは、際限なく便利さや豊かさを追い求めてしまいがちです。一人ひとりが欲望をコントロールして、「足るを知る」ことが必要なんですね。

武藤

そう思います。現代は、技術も経済も大きく発展し、暮らしはかつてないほど便利になりました。その恩恵は計り知れません。しかし、その裏側で、自然への負荷や大量廃棄、人とのつながりの希薄化など、さまざまな歪みが浮かび上がってきているのも事実です。

縄文時代ってある意味、いまのような目まぐるしい進化はなく「停滞していた時代」なんですよ。でも、だからこそ1万年以上も続いた。重要なのは、いまさら当時の不便な生活に戻るべきだということではありません。

私たちが直面している課題を乗り越えるために、縄文人のような「心の余裕」や精神性をもう一度見つめ直してみる。それがこれからの社会を考えるための、大きな手がかりになると思っています。

地域社会を長く残していくためのヒントが、縄文人の精神性にあるのかもしれませんね。

武藤

そうですね。持続可能な地域を考えるうえで、縄文人の「足るを知る」という精神は、いまある豊かさを長く守り継ぐための重要な姿勢となるでしょう。自然の恵みと折り合いをつけ、いただいたものを他者とわけ合う。際限なく便利さを求めるのではなく、いまある環境で満足する「心の余裕」を取り戻す――。

こうした縄文の精神性と、現代のテクノロジーを両立させるハイブリッドな暮らしこそが、これからの地域社会をかたちづくっていくための大きなヒントになるのではないでしょうか。

この記事の内容は2026年5月14日掲載時のものです。

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Credits

取材・執筆
榎並紀行(やじろべえ)
編集
牧之瀬裕加(CINRA, Inc)

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