日本を代表する古都・鎌倉。源頼朝が幕府を開いたこの地は、三方を海と山に囲まれ、現代の都市づくりに照らせば開発難度の高い場所といえます。
当時、なぜ鎌倉が武家政権の拠点として選ばれ、その最強の要塞都市はいかにして築き上げられたのでしょうか?
都市工学者の西村幸夫さんに、特異な地形と地質が生んだ独自の防衛網や、寺院を中心とした前代未聞の都市計画の謎についてうかがいます。
さらに、現代の鎌倉の都市運営についても着目。なぜ鎌倉では、商業開発よりも「街のコアとなる物語」を守る選択が受け入れられているのか。人口減少時代を「豊かな空間再構築のチャンス」ととらえる前向きな都市論とともに、古都の成り立ちからこれからのまちづくりのヒントを探ります。
偶然か必然か? 鎌倉が「最強の要塞都市」になった理由
―かつて、源頼朝は現在の神奈川県鎌倉市を本拠地として、武家政権の礎を築きました。周囲を山に囲まれ、海に面している鎌倉は開発難易度が高い土地です。なぜ、こうした土地が選ばれたのでしょうか?
西村
たしかに鎌倉は、現代の一般的な都市計画に照らせば、決して開発しやすい土地ではなかったといえます。一方で、古代から郡衙(ぐんが:古代の役所)が置かれ、当時の東海道が通っていた交通の要衝であり、古くから人が集まる土地でもあったのです。
頼朝が幕府を築いた当時は、武将同士の勢力争いが拮抗状態にあった武士の時代。それゆえ拠点を築くうえでの絶対条件は、対外的に「守りやすい土地」であることでした。その点、三方を山に囲まれ、一方が海に面した鎌倉は防衛的観点から非常に優れていたといえるでしょう。
加えて、鎌倉は源氏ゆかりの地でもあり、頼朝にとって精神的な拠りどころでもありました。守りの堅い地形という合理性と、「ここが自分たちの本拠地だ」という意識が重なり合って、鎌倉が選ばれたのだと思います。
鎌倉の地形を俯瞰したイメージイラスト
西村
鎌倉の都市づくりにおいて興味深いのは、自然の山をそのまま防御壁にするだけでなく、そこに手を加えて「切岸(きりぎし)」と呼ばれる垂直の崖をつくったことです。山を縦に切り取って石垣のようにし、街の全域を城に見たてて囲い、守りを固めたといわれています。
―自然の地形に人工的な手を加えて要塞化したのですね。
西村
はい。これは世界的にも非常に珍しい手法です。世界の都市防衛を見ると、基本的には城壁などの「物理的な建造物」をつくって守るのが一般的。しかし鎌倉は、もともと険しい自然の地形に手を加えて垂直な壁(切岸)をつくりました。
なぜこれが可能だったかというと、鎌倉の地質が非常に硬い岩盤でできていたからです。普通の山の斜面を垂直に切り取れば崩落してしまいますが、鎌倉の石は削っても崩れなかった。つまり、鎌倉の特異な地質がこの独自の防衛都市を生み出したといえます。もちろん、当時の技術で大掛かりな地質調査が行われたとは考えにくく、たまたま条件が合致したのでしょう。
鎌倉は、「谷戸(やと)」と呼ばれる細長い谷状の地形が入り組んだ土地。斜面を削り出すことで生まれた平坦な土地は、もともと平地が少ない鎌倉において、人々の暮らしの場としても貴重でした。
―平地が少ないと、人が暮らす都市づくりは難しかったのではないでしょうか?
西村
前提として、鎌倉幕府ができた中世のはじめ頃というのは、まだ貨幣経済や商品の流通が十分に発達しておらず、都市に多くの人が密集して定住するような状況ではありませんでした。そのため平地が少ないという制約は、当時の都市づくりにとって大きな障壁にはならなかったのです。
古代の奈良や京都にも都市はありましたが、それは主に役人が住むための場所。鎌倉の都市づくりも定住を想定したものではなく、武士たちは基本的には自分の領地(本貫地)に基盤があり、いざというときに鎌倉に駆けつけるというスタイルだったと考えられます。
鎌倉時代の武士の様子がわかる『男衾三郎絵巻(おぶすまさぶろうえまき)』(出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム)
鎌倉時代の武士の様子がわかる『男衾三郎絵巻(おぶすまさぶろうえまき)』(出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム)
―では、当時の鎌倉はどのような街だったのでしょうか?
西村
土地の中心(平地)には、源氏の氏神である鶴岡八幡宮が置かれ、その周辺に頼朝の住居であり幕府の政務を行う大倉御所などが整備されています。
谷戸の一番奥、最も安全で水の確保ができる場所には「寺院」がつくられました。そこを中心にひとつのまとまった集落ができ、谷と谷を結ぶ道の辻(交差点)にまた集落ができる。そうやってポツポツと小さな拠点が生まれていったのが初期の姿だと思います。寺院は単なる宗教施設ではなく、防衛の要であり、有事には砦のような役割も果たしていました。建長寺や円覚寺などの大きな寺院もそうした機能を持っていたと考えられます。
また、面白いのは防衛機能としての切岸が、死者を弔う場所でもあったことです。「やぐら」と呼ばれる中世のお墓が、崖の壁面をくり抜いて無数につくられました。いまでも鎌倉には何百というやぐらが残っています。
つまり、中心部に政治の機能があり、谷沿いに人々が暮らし、山肌のグリーンベルトが防衛拠点と死者の空間を兼ねるという、見事な「棲みわけ」ができていたのです。
頼朝が鎌倉の都市構造に仕掛けた「権力の物語」
―鎌倉を都市として成立させるためのインフラ整備についても教えてください。港や街道はどのようにつくられましたか?
西村
主に2つの重要なインフラがあります。
ひとつは「和賀江嶋(わかえじま / わかえのしま)」という人工の港です。当時は船がメインの交通機関であり、宋(中国)との交易や西からの文化を受け入れるための重要な窓口でした。
相模湾東部に位置する人工島の和賀江島(画像提供:公益社団法人 鎌倉市観光協会)
西村
もうひとつが「七口(ななくち)」と呼ばれる切通(きりどおし / 街道)です。三方を山に囲まれた鎌倉は、防御に有利な一方、外部との交流が不便だったため、山を削って移動ルートを確保しました。このうち7つの主要な切通を七口と呼んでいます。
これは流通の経路であると同時に、鎌倉を守るための関所(チェックポイント)としても機能しました。
こうした大規模な土木工事は、幕府の権力のもとで御家人たちが労力や資金を分担して行われたと考えられます。彼らにとっても、強大な権力に庇護されることで自らの領地の安全を保障されるというメリットがありました。そうした「御恩と奉公」の関係が、公共事業にも反映されていたと考えられます。
さまざまな物資、なかでも塩を運ぶためにつくられた朝夷奈切通。鎌倉と周辺とを結ぶ重要な交通路だった(画像提供:公益社団法人 鎌倉市観光協会)
―こうした都市計画のグランドデザインは、やはり源頼朝が描いたのでしょうか?
西村
1180年頃に頼朝が最初の構想を描いたといわれています。古代の都市計画との最大の違いは、碁盤の目のような格子状の直線道路(グリッド)をつくらず、「若宮大路(わかみやおおじ)」という一本の巨大な道だけを通したことです。
普通に考えれば、都市の中心には政治の中心である政庁を置くはずですが、頼朝は「鶴岡八幡宮」を置きました。もともと海側にあった八幡宮をわざわざ山側に移し、そこに向かって幅30メートル以上もある立派な参道、若宮大路を通したのです。これは日本の都市計画において前代未聞のことでした。
―なぜ、幕府ではなく神社を都市の中心にしたのでしょうか?
西村
武士としての自分たちの「正統性」を強調するためだと考えられます。鶴岡八幡宮は、京都の由緒ある八幡宮・石清水八幡宮から神霊を迎えて創建されたものです。
頼朝はここに「鶴岡八幡宮こそが全国の八幡宮の総元締めである」という意味づけを与えました。そして、「自分たちは八幡神の加護を受けた正統な武家政権である」という物語を体現するため、神社を都市の中心に置き、権力を正当化した。単なる実用性だけでなく、理念と物語が重なり合った非常に面白い都市計画です。
また、古代の道は地形に関係なく南北軸でつくられるのが普通でしたが、若宮大路は南北ではなく「海に向かって勾配が自然な道」としてつくられています。武士はもともと豪農(多くの土地を所有した富裕な農民)でもありましたから、地形や水路の流れを読み解く実用的な視点を持っていた。地形に逆らわず、自然に素直につくったからこそ、その後も廃れずに生き残ったのだと思います。
源頼朝が1180年に先祖ゆかりの八幡宮を現在の地に遷し、鎌倉幕府の守護神として篤く崇敬したことで、鶴岡八幡宮は東国社会の精神的・社会的中心となった。画像は『享保17年(1732)境内絵図』(画像提供:鶴岡八幡宮)
開発よりも「街の物語」を優先。鎌倉の景観制限に学ぶ、これからの都市のあり方
―若宮大路は、現在も国指定の史跡として地域のシンボルとなっていますね。
西村
はい。鎌倉市では都市景観条例により、指定地域の建築物の高さを最大でも15メートルに制限しています。この制限の根底にある考え方は、「若宮大路を海側から上っていき、振り返ったときに街全体と海が眺望できる、現在の景観を守ること」なのだと思います。
商業的価値が高く、高いビルを建てたいはずのエリアに、あえて条例で厳しい制限をかけている。加えて国の「景観法」に基づく地区指定についても、鎌倉市はほぼ全域を、最も厳しく開発が制限される「景観地区」に位置付けています。
商業的な利益よりも景観を優先した都市運営が可能なのは、「若宮大路からの景観こそが鎌倉のアイデンティティである」という共通認識が、市民や事業者の間にあるからでしょう。鶴岡八幡宮と若宮大路を中心とした街づくりの思想が、中世から脈々と受け継がれているともいえます。
自分たちの街の「コアとなる物語」がはっきりしているからこそ、規制を受け入れることができる。これはほかの街にとっても非常に重要な視点です。
鶴岡八幡宮側から見た鎌倉の街のイメージイラスト
―逆に、開発優先で昔ながらの景観が失われたり、拡大しすぎたりしてしまった地域もあります。
西村
現代の日本の都市の多くは、どこからが都市でどこからが農村かわからないほど、無秩序に拡大してきました。その結果、人口が減少に転じたいまでは多くの地域で空洞化が進み、空き家や空き店舗が増えている。現在は、それをいかに収縮させていくかが課題になっています。
日本の近代化は人口拡大とほぼ並行して進んできたため、いまの社会制度は「拡大」を前提に設計されているのです。地価が上がり続け、人口が増え続けることを前提とした制度のまま縮小局面に入ったため、空き家問題や財政赤字などさまざまな歪みが生じています。縮小に対応した発想への制度的な転換が、これからの日本のまちづくりには不可欠だと考えています。
しかし、私はこの状況をあまり悲観していません。長い歴史のスケールで見れば、20世紀の日本の爆発的な人口増加が異常だったともいえるからです。明治以降、国内の人口は約4倍に増えました。いま、1億3,000万人が1億人や9,000万人に減るといわれ問題視されていますが、もともと3,000万人程度だったものがここまで膨れ上がり、それが「調整局面」に入っているのだととらえることもできます。
―「いまは異常な拡大期からの調整局面である」と考えると、縮小していく社会に対してポジティブな気持ちになれますね。
西村
はい。そのうえで、社会の余剰資源をうまく活用していくことが大事です。たとえば、空き家が増えているのも、発想を転換すれば「隣の家を倉庫や庭として広く使えるようになる」ともいえますし、欧米のように一般の人が「セカンドハウス(別荘)」を持つライフスタイルが普及すれば、地方の空き家はむしろ魅力的な資源に変わります。
リモートワークの普及などで場所に縛られない働き方ができるようになれば、自然の豊かな地方が魅力的に映るはずです。5年、10年の短いスパンで見れば「人口が減って大変だ」となりますが、100年単位の長い視点で見れば、20世紀の無理な拡大によるひずみをリセットし、より豊かな空間の使い方を再構築するチャンスでもあるのです。
鎌倉市の光明寺から見た相模湾(画像提供:公益社団法人 鎌倉市観光協会)
市民のコンセンサスを育む「土地の記憶」の力
―最後にあらためて、鎌倉が現代の景観保存に与えた影響について教えてください。
西村
鎌倉は日本の「古都保存法*」の発祥の地でもあります。1960年代、鶴岡八幡宮の裏手にある「御谷(おやつ)」という山の斜面が宅地開発されそうになる「御谷騒動」が起きました。これに対し、鎌倉の市民たちは「裏山が住宅地になったら、鎌倉の景観が台無しになる」と危機感を抱き、自分たちでお金を出して土地を買い戻すというトラスト運動を起こしたのです。
当時は開発を規制する法律がなかったため、買い取るしか方法がありませんでした。こうした動きは、同時期に同じような課題を抱えていた京都や奈良の取り組みとシンクロし、「古都保存法」制定のきっかけともなりました。
* 古都保存法(正式名称:古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法):1966年に制定された法律で、京都、奈良、鎌倉など8市1町1村(明日香村など)の歴史的風土(建造物、遺跡と周囲の自然環境)を無秩序な開発から守り、後世に継承することを目的としている
―市民の力がきっかけとなって、新しい法律までつくってしまったのですね。
西村
そうです。「周囲を緑の山に囲まれていること」が自分たちのアイデンティティであると市民が強く認識していたからこそ起きた運動でした。鎌倉の人々の誇りの高さと行動力がなければ、日本の歴史的な風景はもっと失われていたかもしれません。
ただ、その「誇りの高さ」ゆえに、現代の鎌倉における市政の舵取りは非常に難しいものになっています。開発を推進する立場と、緑や景観を守る立場の折り合いをうまくつける難しさを、現代の鎌倉市政も抱えています。
―他地域でも、行政のトップの交代や方針転換によって駅前の再開発計画が宙に浮き、街のにぎわいに影響が出るといった事例があります。発展と保存のバランス、そして行政のトップの考え方が街に与える影響は本当に大きいと感じます。
西村
おっしゃるとおりです。特定の再開発プロジェクトが行政の看板事業になってしまうと、ほかの候補が否定的になることも多く、計画の継続性が失われてしまいます。都市計画において非常に難しい問題ですね。
だからこそ、その土地が持つ「物語」を掘り起こし、市民の共通理解(コンセンサス)を育てていくことが重要なのです。もちろん、鎌倉のようにコアとなる物語や、「これ」というシンボルがないと思われる都市もあります。それでも、何気ない曲がった道が古代の東海道であったり、人々の命綱として地域の暮らしや安全を守ってきた小さな水路であったりと、どんな地域にもさまざまな「土地の記憶」があるはず。こうしたものを価値として見直す視点が、これからの日本のまちづくりには欠かせないのだと思います。
この記事の内容は2026年7月2日掲載時のものです。
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Credits
- 取材・執筆
- 榎並紀行(やじろべえ)
- イラスト
- 安楽雅志
- 編集
- 篠崎奈津子(CINRA, Inc.)