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市民ボランティア1,500人以上が支える『いいだ人形劇フェスタ』。「参加者全員が主役」になれるわけ

  • 公開日
いいだ人形劇フェスタの公式キャラクター「ぽぉ」の人形を持った後藤さんと原田さん

毎年夏に長野県飯田市で行われる、日本最大の人形劇の祭典『いいだ人形劇フェスタ』をご存じでしょうか? 日本国内はもちろん海外も含めた各地から約300の劇団が集い、多種多様な人形劇が約300公演行われます。

4日間の開催期間中、飯田市の街は普段とは一変したにぎわいをみせます。胸元には、一緒にフェスタをつくり上げる「仲間」の証であり、各会場の人形劇を観覧できる「パス」でもある、お揃いのワッペン。子どもから大人まで、海外からの来場者も含めたワッペン姿の人々が、街中を行き交います。

なぜ飯田市では、これほど大規模な人形劇の祭典が、毎年行われるようになったのでしょうか? そこには、この場所ならではの歴史や運営方針があるようです。

人形劇が300年以上根づいた街・長野県飯田市とは?

長野県の南部に位置する飯田市。人口約9万3千人*¹のこの街は、近畿地方から本州内陸部を貫いて東北地方へと至る「東山道(とうさんどう)」の中継地として栄えてきました。なかでも上方*²から江戸へと向かう人形浄瑠璃師たちとの縁は深く、古くより芸事が盛ん。かつては人形劇の舞台が80以上存在し、近隣には大鹿歌舞伎や下條歌舞伎*³など、地域の芸能文化も残っています。

*1 2026年4月時点。飯田市ウェブサイトより
*2 上方:江戸時代、京都・大坂を中心とする地域を指した呼び名
*3 大鹿歌舞伎(おおしかかぶき):300年続く長野県大鹿村の奉納歌舞伎。村人総出で演じる日本有数の地芝居 / 下條歌舞伎(しもじょうかぶき):300年の歴史を持つ長野県下條村の歌舞伎。子どもから大人まで参加する継承型の民俗芸能

飯田市の景色

そんな飯田市に、フェスタの前身である『人形劇カーニバル飯田』が誕生したのは、1979年のこと。この年がユネスコにより「国際児童年」とされたことをきっかけに、江戸時代より「人形劇の街」として知られてきた飯田市でも、子どもたちに向けたイベントを立ち上げたい——そんな想いのもと、行政と人形劇の関係者たちがタッグを組んで『人形劇カーニバル飯田』を立ち上げました。

『人形劇カーニバル飯田』は、20周年となった1998年でいったん終了。その翌年より、行政ではなく市民が主体となって運営する、現在のようなかたちの「いいだ人形劇フェスタ」がスタートしたのです。

後藤渉さん

後藤

いまでは夏が近づくと、地元の人が「そろそろ人形劇が来るな〜」と呟くくらい、飯田の風物詩になっています。

男性が両手で掲げた2本の棒の間に糸が張られ、そのうえを小さな人形が渡っている。街の一角に集まりそれを見ている市民の方々

『いいだ人形劇フェスタ』の期間中は街のあちこちで人形劇やイベントが披露される(画像提供:飯田市フォトライブラリー)

『いいだ人形劇フェスタ』は、毎年8月初旬、飯田市と近隣町村の約100会場で開催される日本最大の人形劇イベント。4日間で国内外から約300劇団が集まり、300公演以上が行われます。プロからアマチュア・学生まで誰でも参加できる間口の広さが特徴のひとつで、観客もボランティアスタッフも全員が参加証を兼ねたワッペンを身に付けることで、演じる側と観る側の垣根をなくした、世界でも珍しい形態のフェスティバルです。

下の表は横方向にスワイプできます

できごと背景フェーズ
1979年『人形劇カーニバル飯田』誕生ユネスコ国際児童年。行政と人形劇関係者が共催でスタート。カーニバル期
1988年『世界人形劇フェスティバル』開催東京・名古屋・飯田の3会場で国際フェス。飯田市が世界に知られるきっかけに。カーニバル期
1996年市民ボランティア運営 始動「カーニバル・ステーション(お祭り広場)」の運営を市民主導で実施。中学生を中心に約100人が集結。転換期
1998年『人形劇カーニバル飯田』終了(20周年)市民に継続が委ねられる。転換期
1999年『いいだ人形劇フェスタ』誕生市民主体の運営体制が確立。名前を「フェスタ」に変え、再始動。フェスタ期
現在ボランティア約1,500人体制本部公演スタッフ200〜300人+各地区約1,300人。市民・行政・劇人が三位一体で運営。フェスタ期

市民主体であることを掲げる『いいだ人形劇フェスタ』ならではの特徴と、それが現在まで発展し続けてきた理由はどこにあるのでしょうか。

実行委員長・原田雅弘さんと、市民ボランティアからはじまり人形劇を上演する「劇人(人形劇をする人のことを「劇人」と呼ぶ)」となった後藤渉さんにお話を聞きました。

いいだ人形劇フェスタの公式キャラクター「ぽぉ」の顔ハメパネルを挟んで立つ後藤さんと原田さん

左から、後藤渉さんと原田雅弘さん

原田雅弘さん

原田

市民主体で再スタートすることが決まった際は、この文化を途切れさせてはならないと深夜会議を重ね、どうすれば継続できるかを話し合いました。なぜ今日まで続けられているのか、お話ししますね。

100人の学生ボランティアが参加。『いいだ人形劇フェスタ』立ち上げの原点

「いいだ人形劇フェスタ2016」と書かれた看板と、歴代ワッペンを模した看板が飯田文化会館に掲げられている

『いいだ人形劇フェスタ』開催中の様子(画像提供:いいだ人形劇フェスタ実行委員会事務局)

―後藤さんは、劇人としてステージに立つ前は、1996年頃から市民ボランティアとして『いいだ人形劇フェスタ(以下、フェスタ)』にかかわってきたと聞きました。どんなきっかけだったのでしょう?

後藤

生まれも育ちも飯田なので、幼い頃から『人形劇カーニバル飯田』が毎夏開催されていて、人形劇はとても身近なものでした。最初に人形劇を見たのは保育園の頃。小学校では、「総合的な学習の時間」」という授業で「地域の文化を知ろう」と、子どもたちが実際に人形劇に取り組む授業があって。それが、自分で人形劇を演じるようになったきっかけでもありますね。その後中学生になり、フェスタのボランティアスタッフに参加するようになりました。

洋風の建物を背景にした広場で、観客に囲まれながら獅子舞を披露する後藤さん

チェコで獅子舞を披露する後藤さん。後藤さんは「わたちゃん」という芸名で各地で公演を行っている(画像提供:後藤さん)

原田

1979年にはじまった『人形劇カーニバル飯田(以下、カーニバル)』は、当初は飯田市教育委員会と人形劇関係者のみなさんで組織した「劇人委員会」が運営していました。ですから飯田市民は特に意思決定にかかわることはなく、カーニバル自体が、子どもは別として、市民全体にはそれほど浸透していなかったんです。

そこで、カーニバルと市民の距離をもっと近づけられないかと考え、1996年——ちょうど私が、青年会議所の一員としてカーニバルにかかわりはじめた頃に、イベントの開催期間中、「カーニバル・ステーション」というお祭り広場を設け、その運営を市民ボランティアで担うことにしたんです。

インタビューに答える原田さん

『いいだ人形劇フェスタ』実行委員会 実行委員長 原田雅弘さん
飯田市生まれ。大学進学のため仙台に転居したが、20代で飯田市に戻り地域活動にかかわるように

原田雅弘さん

原田

私が飯田の人形劇を認識したのは、大学生のとき。京都を旅行していたとき、金閣寺の近くで「飯田 人形劇」と書かれたTシャツを着た外国人を見かけたんです。1988年の『世界人形劇フェスティバル』のことをそこではじめて知り、自分の地元にそんなにすごいイベントがあったんだ、と驚きました。

「祝人形劇カーニバル’79飯田」と書かれた看板。その下のステージに、人形を持って立つ人たち

1979年に開催された第1回『人形劇カーニバル飯田』の様子(画像提供:いいだ人形劇フェスタ実行委員会事務局)

原田

ボランティア募集をはじめた当時は「市民ボランティアなんて、本当に集まるのか?」「そもそも市民に運営ができるのか?」という声も多くありました。しかし地域の方や団体をメインに地道に声がけしていき、徐々にボランティアの数が増えていきました。その2〜3年後、学校関係者にも声をかけていったところ、なんと中学生だけでも100人ほど集まったんです。

市民ボランティアが主体となりフェスティバルを支える経験が、その後1999年からはじまるフェスタの「市民主体」というコンセプトへとつながっていきました。

後藤

僕が参加したのは、まさにその頃です。もともと人形劇の現場に興味があったので参加したのですが、100人近いボランティアスタッフがいて、すごく驚いたことを覚えています。飯田市内には中学校が9校あるのですが、それぞれの中学校から10人ずつぐらい参加者がいましたね。

インタビューに答える後藤さん

劇人・人形劇俳優 後藤渉さん
高校時代を除き、生まれも育ちも飯田市。4歳から獅子舞をはじめ、表現することが常に身近にある環境で育つ

後藤渉さん

後藤

保育園の頃にはじめて人形劇を観て、小学3年生の「総合的な学習の時間」で実際に人形劇に取り組んだことが、自分で演じる原点になりました。そこで現場にも興味を持ち、ボランティアに参加したのです。

『いいだ人形劇フェスタ』なら主役になれる。サードプレイス的役割も

―子どもたちにとって、フェスタの現場が学校とも家とも違う、ある種のサードプレイス的な場所として機能していった側面もあるのでしょうか?

原田

そう思います。あの頃は、学校の枠を超えて市内の若者が集まるような場所が、なかなかありませんでした。それに、フェスタでは年齢関係なくそれぞれが主体的に動いていくことが求められます。そのため自分の主体性を発揮しやすかったのだと思いますし、市民主導というからには、「自分たちでつくっていける場」であることが重要だと考えています。

以前、あるボランティアの子がこう言っていました。自分はクラスではパッとしないし、学校もあまり面白くない。でも、フェスタのボランティアをするようになってから、いろんな人たちと一緒に仕事をするのが楽しくて、それでまた一年頑張れると。

『いいだ人形劇フェスタ』のスタッフTシャツを着た原田さん

後藤

僕の中学はボランティアを志願する人が少なくて、当初は知り合いがほとんどいなかったんです。でも、ボランティアを続けるなかで他校の人たちと仲良くなることができて、それも継続して参加する理由として大きかったですね。一緒にボランティアを頑張って、「また来年、会おうね」と言いながら別れる。それが毎年続いていきました。

―1998年にカーニバルが終了し、その翌年には市民主導のフェスタとして再スタート。1年も休まず移行できたのはなぜなのでしょうか。

原田

カーニバルが終わると発表されたとき、「どうしよう」という気持ちがあったのは正直なところです。でも同時に、「これはチャンスだ」とも思いました。いよいよ市民が本当の意味で主体になれる。そう感じたんです。

とはいえ、続けたい気持ちはあっても、運営体制はまったく手探りで。揉めに揉めながらも、「1年休んだら、もう一生開催されないだろう」という気持ちが全員の背中を押しました。だから、なんとしても翌年に開催する必要があったのです。

もちろん移行期間にはいろいろと大変なこともありました。しかし、無事今日まで開催できているのは、ボランティアや劇人の方々の熱意があるからだと感じます。現在は、われわれ実行委員会が運営する中心市街の本部公演スタッフが200〜300人、各地区のボランティアスタッフが1,300人ほど——合わせて1,500人以上の市民ボランティアが、フェスタの現場を支えてくれています。

フェスティバルのマスコットキャラクターの人形を持ったボランティアスタッフたち

フェスティバル中、グッズの販売なども行うボランティアスタッフたち(画像提供:いいだ人形劇フェスタ実行委員会事務局)

「みる・演じる・ささえる」——3者がそろって成立する『いいだ人形劇フェスタ』

―フェスタの基本理念として「みる 演じる ささえる わたしがつくる トライアングルステージ」を掲げています。そこには実行委員会のみなさんの、どんな想いが込められているのでしょう?

原田

人形劇は、3つの立場があってはじめて成立するものです。それは、「劇人」と、それを観るお客さん、そしてその場をつくり支える人。このイベントをはじめた頃からずっとそう言い続けてきました。

最も大切なのは、3者とも「誰かのために」やるのではなく、「それぞれが主役の意識を持つこと」。立場や役割が違っても、参加するみんなが主役になれる——それがフェスタの根底にある、私たちの想いです。

「IIDA PUPPET FESTA」などと書かれたワッペン

1枚700円で購入できるワッペン。参加証の役割を持ち、鑑賞者だけでなく演じる側も購入している。画像は2026年度のもの(画像提供:いいだ人形劇フェスタ実行委員会事務局)

飯田駅前には歴代ワッペンをデザインしたタイルも

原田雅弘さん

原田

ワッペンは、みんなで少しずつお金を出し合ってつくる「フェスタをつくる人たちの証」なんです。

―演者、観客、運営の3者が、フラットなかたちで交流しながら、一緒につくりあげていくのが『いいだ人形劇フェスタ』であると。

原田

フェスタには、地元の劇団はもちろん、全国各地、そして海外からも多くの劇人が参加してくれています。こうした催しに出演する方々は、普通であれば「お客さま」として扱われます。ですが飯田の場合、そういう雰囲気はまったくなくて。「お客さま」ではなく、一緒にフェスタをつくりあげていく「仲間」、という空気が根づいているんです。

後藤

あの空気感は、飯田ならではですよね。僕は飯田以外の人形劇のお祭りにも出演する機会がありますが、そのときは作品を上演して終わり、という場合が多い。

でも『いいだ人形劇フェスタ』は、上演後、市民ボランティアスタッフなど、関係者も含めて劇人との交流会を積極的に開いています。そこで知り合った方と、そのあと一緒に何か作品をつくったり、客演の話がきたり、あるいは海外公演に一緒に行ったりとか、新たな交流のかたちに発展していくことも多いんです。現場で人と人がつながり、発展していくところは、このフェスタのいちばんの特徴といえるでしょう。

開催期間中は多くの子どもたちの姿も(画像提供:飯田市フォトライブラリー)

人形浄瑠璃を演じる子どもたち

地元の子どもたちが人形浄瑠璃を演じることも(画像提供:飯田市フォトライブラリー)

手ぬぐい一枚が竜になる。人形劇という「想像力をわかち合う」魔法

―日本国内と海外を合わせて300近い劇団が集まり、300公演以上が開催される。ラインナップを見ると、子ども向けから大人向け、伝統芸能に近いものまであり、幅の広さを実感します。

原田

実は私個人としては、「カーニバル」から「フェスタ」になったとき、市民が主体となるなら、別に人形劇じゃなくて、音楽でも舞台演劇でも、何でもいいのではないかと思っていました。しかし、実際に人形劇フェスタをはじめて何年か経ったとき、やはり人形劇でなければならなかったと気づく瞬間がありました。その理由こそ、人形劇の幅の広さにあります。

人形劇には本当にさまざまなかたちがあります。国内はもちろん、海外にも多種多様なものがあって。ただ、そのいずれにも共通するのは、「もの」に命を吹き込むってことなんです。

「ぽぉ」の人形を持った手

―「もの」に命を吹き込むとは?

原田

人形は「もの」といえるかもしれませんが、劇人の手にかかると、本当におしゃべりしているように見えるときがあるんです。表情が変わることはないはずなのに、泣いたり笑ったりしているように見える。なんなら、手ぬぐい1枚も空を舞う龍にだってなれます。人形劇は、その感覚を、その場にいるみんなで共有できるんです。

つまり、それは想像力で補い合い、感動をわかち合っているということだと思います。演者と観客の想像力が補完し合って、ひとつの表現が成立している。ある意味、その場にいる一人ひとりが協力してはじめて完成するものなんです。そうやって主体性を持って全員でつくり上げていくあり方は、『いいだ人形劇フェスタ』が大切にしたい根底の部分と合致している。そう考えるようになりました。

手ぬぐいを使って龍をつくってくれた後藤さん

後藤

私が所属するNPO法人いいだ人形劇センターでは、人形を通じてコミュニケーションを取りたいという、さまざまな背景を持つ子どもたちのために、福祉的な活用も模索しています。

そのなかで子どもたちに人形劇のつくり方を教えることもあるのですが、彼らの創造力の豊かさには、いつも驚かされます。自分たちで劇をつくり、実際に演じてみることで、新しい自分を見つけたり、表現したりするきっかけを得る子たちも多いです。親御さんが「うちの子、そんなこともできるんですか?」と驚くこともあるんですよ。

人形と触れ合う子どもたち(画像提供:飯田市フォトライブラリー)

「人形劇のまち・飯田から来ました」と胸を張って言えるように

―飯田は「人形劇のまち」と呼ばれていますが、原田さん自身はその言葉をどう受け止めてきましたか?

原田

私は、「人形劇のまち」とはつまりどういうことなんだろうと、ずっと考えていました。

でもあるとき、青年会議所で人形劇担当委員会の一員だった先輩から「そんなに難しいことじゃないんじゃない?」「ほかの土地に行ったとき、『どこから来たの?』と聞かれて、『人形劇のまち・飯田から来ました』って、胸を張って言えることだと思う」と言われて、なるほどと思ったんです。

そう言えるような子どもたちが育っていく街にすること、それが私たちの役割だと思っています。つまり、自分の地域に「誇り」を持ってほしいということです。

インタビューに答える原田さん

原田

その「誇り」は、誰かに与えられるものではありません。フェスタを「自分がつくった」と感じられる子どもをひとりでも多く育てること——そこからしか、本物の誇りは生まれないと思っています。自分がかかわったという意識のないところに、誇りは根付かない。それが「市民主体」という、フェスタの根幹にある理念ともつながってくるわけです。

―その考え方が根底にあるからこそ、『いいだ人形劇フェスタ』がここまで続き、愛されるイベントになったのかもしれませんね。

原田

よく取材で、「よくぞ、ここまで市民を巻き込みましたね」と言われることも多いのですが、「巻き込んだ」というより、むしろ「一緒にやろうよ」という感覚なんです。一緒にフェスタをつくっていく仲間を増やしたい、という感覚です。

後藤

『いいだ人形劇フェスタ』って、誰かひとりが「ついてこい!」と旗を振るのではなく、みんながゆるやかにつながっていく。それが最大の特徴であり、いいところだと思っています。

原田

著名なプロデューサーを招き、その人を中心に開催する芸術祭は各地にあります。実際飯田でも、そうしたカリスマ的な人物に方向性を示してもらえばいいという声が上がったこともありましたが、それは私たちがめざすフェスタではないと思っています。

みんなでああでもないこうでもないと言いながらつくってきたのが、『いいだ人形劇フェスタ』です。その分、推進力に欠けて、なかなか前に進まないこともありましたが(笑)。それはそれで飯田らしくていいと思っています。誰かひとりの「想い」を実現する場所ではなく、みんなの「想い」を重ね合わせながら実現できる場所にしたいのです。

後藤渉さん

後藤

フェスタのボランティアをしている地元の人のなかには、「フェスタがなかったら飯田を離れていた」と言う人もいます。僕もその一人です。このフェスタがあるからこそ、誇りを持って飯田に居続けられるのだと思います。

夜、街の一角に設けられた舞台で人形劇が演じられている

夜も街中で人形劇が開催される(画像提供:飯田市フォトライブラリー)

中止になって実感した、国内外の絆とフェスタの意義

―2020年は、コロナ禍により中止を余儀なくされたそうですね。

原田

2020年は中止、翌年は参加者制限を設けての開催でした。ただ、コロナ禍は決して悪いことだけではありませんでしたね。

実はあの時期、世界的に大変な状況であるにもかかわらず、国内はもちろん海外の劇人からも、たくさんのエールや寄付を寄せていただきました。

『いいだ人形劇フェスタ』をどれだけ多くの人が求めてくれているのか——当たり前のように毎年やっていたら、気づきにくいことです。それをあらためて感じられたことは、フェスタを運営する私たちにとって、大きな励みになりましたし、思いを新たに、これからもフェスタを盛り上げていきたいと感じました。

海外の人形劇団と交流する市民の方々(画像提供:飯田市フォトライブラリー)

―最後に、いま感じる課題や今後取り組んでいきたいことについて教えてください。

原田

次世代の育成について、あらためて考えていかなければならないと感じます。先ほど話したような、フェスタが生み出す「つながり」については、ひとつ理想的なかたちができていると思っています。一方で、若い世代がかかわることが減っている現状もあります。学校の環境も以前とは大きく変わってきているし、そもそも子どもの数が、以前よりも少なくなっていますから。

スタッフと一緒に会場を片づける子どもたち(画像提供:飯田市フォトライブラリー)

後藤

僕が小学生の頃にはあった「舞台鑑賞教室」がカリキュラムの見直しでなくなったり、コロナ禍で鑑賞授業が減少したりと、以前より人形劇に触れる機会が減ってしまっていることも大きいと思います。

原田

どんなかたちであれ、一度現場を見てもらって、あの空気を肌で感じてもらえたら、多少変わってくるはず。もう一回、人形劇をライブで観ることの面白さを感じてもらえるような取り組みを、引き続き考えていきたいと思っています。

人形劇を見て楽しんでいる市民の方々や子どもたち(画像提供:飯田市フォトライブラリー)

原田

同時に、最近感じているうれしい変化もあるんです。昔は親子連れや子どもが主体でしたが、最近は大人のカップルや夫婦が、特に夜の公演に多くなってきた。大人が鑑賞しても楽しいコンテンツとして、人形劇がだんだん浸透してきた実感があります。

今後は、人形劇のラインナップの幅をさらに広げていきたい。お客さんの半分が「すごくよかった」と言い、もう半分が「何だこれ?」と思うような、賛否両論が起こる演目を毎年ひとつかふたつは入れたいですね。

それは『いいだ人形劇フェスタ』でしかなかなか上演できないものだし、劇人にとってもチャレンジの場になるはず。多様な表現が一堂に会することで、人形劇の奥深さや面白さを、より一層伝えられると思います。今後はそんな場づくりにも力を入れていきたいです。

笑顔で立つ後藤さんと原田さん

この記事の内容は2026年7月23日掲載時のものです。

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Credits

取材・執筆
麦倉正樹
写真
北原千恵美
編集
服部桃子(CINRA, Inc.)

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