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高校球児を支える力は、グラウンドの外にも。県岐阜商と地域が築いた100年の循環
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地元で育った選手たちが、ともに全国の舞台をめざす。100年を超える歴史を持つ名門・岐阜県立岐阜商業高等学校(県岐阜商)硬式野球部は、岐阜県出身の選手たちを中心に、地域の期待を背負いながら歩みを重ねてきました。
2025年には夏の甲子園でベスト4に進出し、全国にその存在感を示した県岐阜商。その「強さ」は、どのように育まれているのでしょうか。
グラウンドで汗を流す選手たちのそばには、OBや地域の人々、下宿生を支える食堂など、学校の外からチームを見守り、支える存在がありました。
藤井潤作監督、野球部OB会の坂口清貴さんと石榑淳さん、そして食堂の大野マサ子さんの言葉から、地域と高校野球が描く「理想の循環」を紐解きます。
【岐阜県立岐阜商業高等学校 硬式野球部】
- 所在地:岐阜県岐阜市
- 1925年創部。100年を超える歴史を持つ
- 甲子園には春夏合わせて60回以上出場し、全国制覇も4度(春3回、夏1回)達成している全国屈指の伝統校
- 2025年、夏の甲子園でベスト4に進出
- 地元・岐阜県出身の選手たちを中心に、全国の舞台をめざす
地元の仲間と、全国で戦う。公立の名門・県岐阜商を率いる藤井監督の覚悟
―近年の高校野球では、県内の中学生が県外の強豪校へ進学するケースも少なくないと思います。そのなかで、あえて県岐阜商を選ぶ選手たちには、どのような想いがあると感じますか?
藤井
やはり、「この県岐阜商で、地元の仲間と一緒に全国で暴れたい」という強い想いと覚悟を持って県岐阜商に来てくれている子が多いと感じます。
県岐阜商は、野球だけでなく文武両道を大切にしてきた学校です。そうした学校のあり方も理解したうえで来てくれているからこそ、こちらが伝えたいことを素直に受け止め、自分の行動に移そうとする姿勢を持っている子が多いですね。
藤井潤作さん
県岐阜商野球部監督。市立岐阜商業、朝日大学を経て社会人野球で活躍。教員に転じ、2024年秋、県岐阜商野球部監督に就任。創部101年目となる2025年に夏の甲子園ベスト4へ導いた
―藤井監督ご自身も岐阜のご出身で、これまで県内の公立高校で指導を重ねてこられました。公立校である県岐阜商を率いるうえで、どのような想いがありますか?
藤井
そうですね。最初から公立高校で指導したいと思って、教員免許を取りました。
たとえば17年前に私が県岐阜商の副部長として甲子園に出場したときは、公立校は10校ほどあったんです。それが2025年の夏の甲子園では6校にまで減りました。公立校が甲子園に出場する機会が少なくなっているからこそ、「より一層頑張りたい」という想いは強いですし、それが自分の原動力になっています。
―そうしたなかで、2024年秋に、名将として知られる鍛治舎巧前監督から県岐阜商の監督を引き継がれました。当時は、どのようなお気持ちでしたか?
藤井
とにかく、鍛治舎前監督が大きすぎる存在でしたからね。監督として目立った実績のない自分が引き継ぐということで、最初は大きな重圧を感じました。
ただ、退任されるときに「あとは頼むぞ」と言っていただきましたし、「公立でも全国の強豪と対等に戦えるようにしてほしい」ということも強く言われました。その言葉は、いまも自分のなかに残っています。
そのうえで、すぐに勝とうとするのではなく、時間をかけて着実にいいチームをつくっていく。一歩ずつ成長していければいい、と考えていました。だからこそ、「まずは自分が信じるやり方でやってみよう」と。そこに迷いはなかったですね。
練習でグラウンドに集った部員たち。グラウンドは野球部専用ではなく、ほかの部とスペースをわけ合って使用している
街の声援、地元飲食店の協力。県岐阜商の強さを生む、地域の支え
―「高校野球と地域とのかかわり」についてうかがいたいのですが、藤井監督が日々の活動のなかで、「地域からの支え」を実感するのはどんな瞬間でしょうか?
藤井
たとえば、県予選の最中にコンビニに寄ったら、地域の方が「今日、頑張ってね」と声をかけてくださるんです。学校のすぐ近くにある金華山を選手たちと走っているときも、登山者の方々が本当に温かく応援してくださいます。
また、朝早くからバットの音が響くこともあります。近所の方が出てこられたときに「ちょっと音が大きかったかな」と思ったら、「いつも元気をもらうわ、ありがとうね。頑張って」と言っていただいたこともありました。野球部の存在が地域に根づいていることを、あらためて感じますね。
甲子園に出場したときも、うちのアルプス席にはたくさんの方が応援に駆けつけてくださいました。岐阜からこれほど多くの方が来てくださるのかと、あらためて、すごい学校だなと肌で感じました。
―2025年の夏の甲子園ではベスト4に進出し、「県岐阜商旋風」を巻き起こしました。地元に戻られてからの反響はいかがでしたか?
藤井
地域や全国の方々から、県岐阜商の戦いぶりや選手たちの姿に対して、本当にたくさんの反響をいただきました。なかには「いままで家から出ない生活を続けていたけれど、県岐阜商のプレーを見て、外に出るきっかけになった」という声もあって。
また、外野手として活躍した横山温大という選手宛てにも、多くのメッセージをいただきました。横山は生まれつき左手に障がいがある選手なのですが、同じような境遇のお子さんを持つ親御さんからの言葉もありました。
高校野球には、これほど社会に影響を与える力があるのだと知り、身が引き締まりました。同時に、またあの舞台に戻りたいという想いも強くなりました。
―地元の公立校ならではの特徴として、地域やOB会からの支援に助けられる部分も大きいのではないですか。
藤井
それはもう、めちゃくちゃあります。何か困ったときに、部長がOBの方に相談すると、「OB会で声をかけてみるわ」とすぐに動いてくださるんです。
私が監督になった直後にも、OBの方々から「何か欲しいものあるか」と声をかけていただきました。当時、トレーニング器具がかなり傷んでいたので、「できれば新しい器具に買い替えたいです」と相談したところ、すぐに購入してくださって。あの器具のおかげで、いまの選手たちの体づくりができています。
グラウンド脇に設置された、選手たちのトレーニングスペース
藤井
県岐阜商には学生寮がないため、県内でも遠方から通う生徒は、学校の近くで下宿生活を送っています。また、合宿の際などに校内で食事をまかなえる専用の食堂があるわけでもありません。
そのため、食事の面でも地域の飲食店のみなさんに支えていただいています。たとえば、下宿生の食事は、かつて喫茶店を営まれていた大野マサ子さんにも長く支えていただいています。部員たちに聞くと本当においしいそうで。体が資本ですから、しっかり食べさせてもらえる環境があるのは、とてもありがたいです。
校内や近隣施設で合宿を行うときには、保護者のみなさんが炊き出しをしてくださることもありますし、近くの中華料理店や定食屋、カフェの店主さんたちも協力してくださることもあります。限られた予算のなかで、「腹いっぱい食べさせたるわ」と大量の食事をつくってくださるんです。
地域のお店には県岐阜商のOBもいますし、商業高校ということもあって日頃から地域とのつながりもあります。そうした関係性のなかで、「県岐阜商のためなら」と力を貸してくださる方が多いんです。いろいろな場面で地域のみなさんが協力してくださるのは、本当に心強いですね。
日々の振る舞いで街に恩返し。「応援される部」であるために
―チームづくりや選手への指導で大切にしていることはありますか?
藤井
野球は頭を使うスポーツです。だからこそ、選手たちには、常に「自分で考えること」を大切にしてほしいと伝えています。
たとえば、通常は試合中の守備シフトなども監督が指示を出しますが、時には選手たちに完全に任せることもあります。「今日は君たちがすべて考えて、指示を出しなさい」と。
そのときに、彼らがなぜその判断をしたのかを知りたいんです。試合の状況に応じて、適切な判断ができるかどうか。そこを鍛えておかないと、彼らが大学や社会人に進んだときに、なかなかレギュラーを取れないと思っています。
そのうえで、「一番大事な場面での責任はこっちが取る。だから、こういう場面で一生懸命に頭を使っておきなさい」と伝えています。
―そうした「自分で考える」姿勢は、グラウンドの外での振る舞いにもつながっているのでしょうか?
藤井
そうですね。地域のみなさんにこれだけ手厚く支えていただいている以上、選手たちにも、県岐阜商の野球部員としての自覚を高く持ってほしいと思っています。だからこそ、普段の自転車の乗り方から立ち居振る舞いまで、口うるさいほど言っています。「君たちは県岐阜商の看板を背負っているんだよ」と。
私は選手たちに、生涯にわたって「社会的成功と人間的成功の2つを追え」と伝えています。野球でレギュラーになりたい、将来プロ野球選手になりたい、社長になりたい。そうした目標が社会的成功だとすれば、人としてどうあるべきかを考える人間的成功も、絶対に必要です。
グラウンドの外でも、県岐阜商の野球部員としてどう振る舞うべきかを自分で考え、行動につなげられる人間になってほしいんです。
―お話をうかがっていると、「強いから応援される」のではなく、「野球以外の振る舞いも含めて応援される部でありたい」という監督の信念が伝わってきます。その考えは、どこから来ているのでしょうか?
藤井
基本的な考え方として、やはり地域の方に応援される部でありたいんです。誰からも応援されないチームにはしたくない。私、寂しがり屋なので(笑)。
これまでの監督経験のなかで、勝っても負けても周りが無反応であることが一番つらかったんです。試合が終わったあとに「なぜ、あそこでピッチャー変えたんだ!」と言っていただけるのは、興味を持って見てくださっている証拠ですから。本当にありがたいことだと思っています。
―では、あらためてうかがいます。監督から見て、選手たちは地域へどのようなかたちで恩返しができていると感じますか?
藤井
以前、雪が降った日に、隣の高校の先生が道路の雪かきをされていたそうなんです。そこをうちの野球部の子が自転車で通りかかったときに、「ありがとうございます!」と声をかけたそうで。その先生がとても感動して、地元の床屋さんにその話をされたんです。すると、その床屋さんがうちのOBで、私のところまで話が回ってきました。
この話を聞いたときに、地域の方々に喜んでもらえるのは、試合で結果を残すことだけではないのだと感じました。そうした、日々のちょっとした一言や振る舞いも十分に地域への恩返しになる。これこそが、私のめざす県岐阜商野球部の姿だと思っています。
街のいたるところにOBが。地域全体の後押しが公立校の強み
―ここからは、県岐阜商野球部OB会の坂口清貴さんと石榑淳さんにお話をうかがいます。坂口さんは2代前の、石榑さんは現在のOB会委員長としてチームにかかわってこられました。現在、OB会としてはどのようなかたちで野球部をサポートされているのでしょうか。
坂口
たとえば、野球のオフシーズンにはOB会を開き、若い世代から年配の者、プロ野球に進んだOBまで、100人以上が集まる交流の機会をつくっています。
選手やチームへのサポートは、OB会として行うものもありますが、それぞれができる方法で支えている部分も大きいですね。私自身も夏の大会前に差し入れをしたり、選手たちを焼肉に連れて行ったりしています。
坂口清貴さん
県岐阜商野球部OB会相談役。1968年に同校へ入学し、春の甲子園に出場。OB会委員長を8年務め、現在も週の半分はグラウンドに通う。2025年夏は孫の路歩さんが3年生・4番として甲子園に出場した
―藤井監督も「困ったときにすぐ助けてくれる」と感謝されていました。
坂口
公立高校ですから、設備面などでどうしても限られる部分はあります。いまの監督や部長は、日々いろいろな工夫をしながらチームを運営されていると思います。
だからこそ、私たちOBも、できる限り力になりたいんです。設備の不具合を聞けば「よっしゃ、なんとかしたるわ」とすぐに動く。自分で対応できないことでも、解決できそうなOBを紹介してつないでいく。そうやって、現場の困りごとに対して、すぐに手を差し伸べられる存在でありたいと思っています。
―卒業後も地元に残ったOBの方々は多いと思います。野球部OBであると同時に「地域の一員」として県岐阜商を応援したいという気持ちもあるのでしょうか?
石榑
もちろん、それもあります。おっしゃるとおり、県岐阜商は地元・岐阜の子たちが中心の公立校ですから、卒業後もこの地域で働いたり、商売をしたりしているOBがたくさんいます。岐阜の街では「県岐阜商のOB」というだけで、自然と縁がつながっていくところがありますね。
石榑淳さん
県岐阜商野球部OB会委員長。同校野球部出身で、卒業後は岐阜県の高校教員に。関商工や母校で野球部の部長・監督を務め、県岐阜商では教頭も務めた
坂口
そうそう。たとえば取引先で「出身高校は?」と聞かれて、「県岐阜商です」と答える。すると、それだけで距離が縮まることがあるんです。そうしたつながりが、街のいたるところにあります。
石榑
それに、岐阜県内の学童野球や、中学のボーイズリーグ、シニアリーグで監督やコーチを務めている方たちのなかにも、県岐阜商のOBはたくさんいます。
それぞれの地域に根づいて子どもたちに野球を教え、岐阜県の高校野球全体を盛り上げながら、「県岐阜商を強くしたい」という想いを持って、草の根で支えてくれている。そうしたOBとしての誇りや母校への想いが、岐阜の各地に息づいているんです。これが、公立校としての県岐阜商ならではの強みだと思います。
―みなさんは野球部を「支える側」ですが、逆に野球部を支えることで、何を「受け取っている」と感じますか?
坂口
私は「元気の源」ですね。周りからは「こんなに暑いのに、わざわざグラウンドまで行くの」と言われることもあります。それでも、週の半分は練習を見に顔を出す。選手たちの姿を見ることが、自分にとって生きるエネルギーになっているんです。本当に、こちらが助けてもらっています。
石榑
私は「幸せ」ですね。チームがひとつ勝つ、ふたつ勝つ。そのことが、日々の小さな喜びになります。
私の息子も娘も県岐阜商出身なので、家のなかでも「いまの野球部はこうだ」と共通の話題で盛り上がることができるんです。野球部が、家族をつなぐ大きな存在になっています。
―お二人のお話から、地域の人々にとって県岐阜商が特別な存在であることが伝わってきます。これからも野球部が地域に愛され続けていくために、必要なものは何だと思われますか。
石榑
結果だけを追い求める「勝利至上主義」は、県岐阜商の野球ではありません。野球だけをやっていればいいというのではなく、大切なのは文武両道を貫くこと。学校に昔から受け継がれてきた「不撓不屈」の精神を、日々の生活のなかで身に付けていくことです。
大谷翔平選手がゴミ拾いを大切にしてきたことはよく知られていますが、県岐阜商でも何十年も前から、「トイレのスリッパを並べる」「ゴミを拾って徳を積む」といったグラウンドの外での振る舞いを磨くことも、野球部の伝統として重んじてきました。
坂口
そうした日々の積み重ねが、地域の人に「やっぱり県岐阜商の子はいいな、応援しよう」と思ってもらえる礎になるんです。
100年にわたって先輩たちが大事にしてきたこの伝統を受け継ぎ、未来に残していくこと。いまは、一世を風靡した強豪校でさえ、時代の流れのなかで姿を変えていくことがあります。だからこそ、地元・岐阜の子たちが多く集まる県岐阜商が勝ち上がり、地域に応援される。この理想的な景色を、10年後、20年後も残していかなければならないと思っています。
下宿生を支える「もうひとつの家」。約40人の胃袋を満たす地域の食堂
―最後は、遠方から入学した下宿生の食事を長年支えている、大野マサ子さんにお話をうかがいます。大野さんは、もう26年も下宿生のごはんをつくり続けてこられたそうですね。
大野
きっかけは、うちの娘が県岐阜商に入学したことです。娘自身は空手部だったのですが、顔見知りだった陸上部の先生から「遠くから来ている子にごはんを食べさせられる場所はないか」と相談されました。それで、当時経営していた喫茶店の一角を使って、下宿生に食事を出すようになったんです。
最初は7人くらいでしたし、「娘もお世話になっているし、3年くらいならいいか」と思って引き受けたんです。
それが「次の年もお願いします」「次も……」と言われているうちに、気がつけば四半世紀(笑)。人数もどんどん増えて、いまは野球部、バレー部、他校の子も含めて毎日38人分の食事をつくっています。お店は2025年で閉めましたが、いまは下宿生だけのための食堂として続けているんです。
大野マサ子さん
県岐阜商の下宿生の食事を支える。娘の入学をきっかけに食事の提供をはじめ、26年にわたり、毎日約40人分の食事を用意し続けている
―下宿生にとってここは、ほっとできる「もうひとつの家」のような場所なのかもしれませんね。
大野
食卓では、今日の練習でミスをしたという野球の話から、誰が好きだとかいう高校生らしい話まで、いろんな会話が聞こえてきますよ。
私は厨房でつくっているもんで、子どもたちの様子をじっと見ていられるわけではありません。でも、食の進み具合はしっかり見ています。いつもより食べる量が少ないと「何か悩んどるのかな」「調子が悪いのかな」と気になるんです。そういう日が続くようであれば、親御さんや先生に「あの子、何か悩んでいませんか」と相談するようにしています。
―大野さんから見て、県岐阜商の野球部にはどのような印象がありますか?
大野
まず、挨拶がきちんとできて、元気がいいですね。うちでは食事に来るようになった子どもたちに、最初に「挨拶だけはちゃんとやりなさいよ」と叩き込みます。「挨拶しなかったらごはんはなし! 食べちゃいかん!」って(笑)。
だって、この地域の人たちはみんな県岐阜商が大好きなんです。街で会えば、喜んで応援してくれる。「そういう人たちをがっかりさせるような態度はとるんじゃないよ。道で会ってもちゃんと頭を下げなさいよ」って言っています。
挨拶ひとつでみんなにかわいがってもらえるんです。「県岐阜商の子は挨拶がいいね」って言われると、私もうれしいし、子どもたちにとっても、社会に出てから困らないための大切な学びになりますから。
―26年間のなかで、特に印象に残っていることを教えてください。
大野
下宿にいた子がプロ野球に入ってくれたときは、やっていてよかったなと思いますね。阪神タイガースに入った藤原(正典)君や、横浜DeNAベイスターズに入った三上(朋也)君。2025年の夏の甲子園で活躍した横山君の姿も印象に残っています。
横山君の手は、ほかの子の柔らかい手とは数段違って、ものすごいマメだらけでね。「ああ、これがこの子の努力の証なんやな」って感動しました。
あとは、卒業して教員になり、県岐阜商に戻ってきた子もいます。結婚して「おばさん、これが奥さんやよ」と連れてきてくれたり、子どもが生まれた報告に来てくれたりする子もいる。近くに家を建てて、「自分の子どもも県岐阜商に入れる」と言ってくれる卒業生もいて、本当にうれしいですね。
かつて喫茶店として営業し、いまも下宿生の食事を支える空間
ここから巣立ち、プロの道へ進んだ卒業生たちのサインも
―大野さん自身は、この活動を通じて生徒たちから何をもらっていると感じますか?
大野
やっぱり、みんなの「笑顔」と「おいしい」という一言ですね。たまに厨房まで「うまっ!」って声が聞こえてくるときがあって、一人でガッツポーズしています(笑)。
それに、3年ごとに子どもたちが入れ替わるので、「今度はどんな子と巡り会えるかな」と思える。その新しい出会いが、私の一番の楽しみなんです。
ほかにも、長野の親御さんから届いたレタスをわけてくれる子がいたり、米不足のときには遠くの農家のおじいちゃんが「米あるか」って持ってきてくれたり。食事のお世話をしていなければ出会えなかった人たちに、私自身もたくさん助けてもらっていますよ。
「強いから応援される」のではない。100年にわたり育まれてきた「地域との循環」
藤井監督、OBのお二人、そして食堂の大野さん。立場は違えど、それぞれの言葉の根底には、県岐阜商への深い愛情と、グラウンドの外での人間的成長を大切にする姿勢がありました。同校が100年以上にわたって地域に愛され、強豪であり続けてきた理由は、そこにあるのかもしれません。
県岐阜商がめざすのは、結果だけを追い求める野球ではありません。文武両道を貫き、礼儀を重んじ、地域に応援される存在であること。その積み重ねが、地元の子どもたちを惹き付け、選手たちは地域の声援を力に変えて勝ち上がる。そして、その姿がまた街に元気を返していく。県岐阜商野球部は、高校野球と地域社会が支え合うひとつの循環を体現しています。
「希望の星」。大野さんは、地域にとっての県岐阜商をそう表現しました。大人たちは球児のひたむきな姿に明日への活力をもらい、選手たちは地域の愛情を糧に、社会を生き抜く力を育んでいく。県岐阜商が100年を超えて築いてきたこの循環は、これからの高校野球と地域の関係を考えるうえでも、大きなヒントを与えてくれるのではないでしょうか。
この記事の内容は2026年7月30日掲載時のものです。
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Credits
- 取材・執筆
- 榎並紀行(やじろべえ)
- 写真
- 伊藤圭
- 編集
- 包國文朗(CINRA, Inc.)