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なぜ安曇野は道祖神の里になった?東西の文化で育まれた「おおらかな愛着」

  • 公開日
男女が対になっている道祖神碑。その上に「なぜ?の真相究明所08 / なぜ安曇野は道祖神の里に? / Why Is Azumino Known as the Home of Dōsojin?」の文字

長野県安曇野市には、500基以上の道祖神碑(どうそじんひ)があることをご存知ですか? 道路脇、集落の境界、民家の庭先——いたるところに置かれたその石像は、いまも新しくつくられ続けています。

なぜ、安曇野にこれほど多くの道祖神碑が存在するのでしょうか? その問いを追うと、水に苦労しながら農業用水路をつくり、水田を拓いて豊かになった土地の歴史と、東日本と西日本の文化を柔軟に取り込む安曇野の人の「おおらかな気質」という、ふたつの要素が見えてきました。

安曇野市豊科郷土博物館で学芸員を務める宮本尚子さんと、生まれも育ちも安曇野で地元の「道祖神祭り」に長年注力してきた小穴金三郎さんのふたりに、なぜ安曇野にこれほどの道祖神碑が存在するのか、お話をうかがいます。

東日本と西日本の文化が交わる場所。安曇野という「おおらかな」土地柄

安曇野の北アルプスと田園風景(写真提供:豊科郷土博物館)

まずは、安曇野の地理的な特徴について教えてください。

宮本

安曇野は、松本盆地の北側に位置しています。西側を南北に走る北アルプスの山々をはじめ、一見山に囲まれ、海から遠く隔てられた土地に見えますが、南は松本盆地南端の塩尻から愛知県に続く伊那街道、北は新潟県へ続く塩の道など、実はほかの地域へとつながる道がいくつもあります。これらの道を通じて、東西の特徴的な文化が安曇野に入ってきている。言わば、東日本の文化と西日本の文化の交接地点——それが、安曇野なんです。

安曇野市の地図が描かれた大きなタペストリー

安曇野市の地図。上が北、下が南。いくつか山間に細い道が抜けているのが見える

説明する宮本さん

安曇野市豊科郷土博物館 学芸員

宮本尚子さん

小穴

たとえば安曇野では、年取り魚(大晦日のごちそう)にブリを食べる家が多いのですが、これは西日本の文化なんです。けれども雑煮に入れる餅は、関東のような角餅が多い。東西南北さまざまな文化が融合しているというか、いいものは何でも取り入れようとする「おおらかな気質」が、昔から安曇野の人たちのあいだには根づいているように感じます。

説明する小穴さん

小穴金三郎さん

安曇野というと、水源が豊富で豊かな田園風景が広がるイメージもあります。

宮本

そう思われがちですが、実は昔はとても水で苦労した土地だったんです。安曇野は「複合扇状地」と呼ばれるいくつもの扇状地が重なる地形であり、その扇央部分では、一度川が消えてしまう。水が地下に潜って「伏流(地表を流れる川の水が、ある区間だけ地中にもぐって流れる現象)」になるんですね。そうしたところでは水がなく、生活用水にも苦労しました。

小穴

伏流の水は地中にあるのですが、水脈は深く技術も道具もない時代では井戸を掘ることができなかったのです。

宮本

一方で「三川合流」と言って、犀(さい)川・穂高川・高瀬川という三つの川が合流する地域は、伏流が湧水として現れます。でも、湧水の温度は低く田んぼには不向きなんです。

小穴

また、山際の沢水も、水温が低く稲が育ちにくいという点では同じでした。

つまり、水源はあるけれど活用が難しい環境にあったと。

宮本

そうなんです。そこでこの地域では、堰(せぎ / 農業用水路を、安曇野ではこう呼ぶ)が縦横にはりめぐらされたのです。江戸時代の中頃から等高線に沿った堰の開鑿(かいさく)が行われ、地域の隅々まで用水路が整備されるようになってから、ようやく現在のような田園風景が広がる景色になっていったんですね。

宮本尚子さん

宮本

戦後の圃場整備に伴い田んぼや道が広がったことで、もともとあった場所から動かされた道祖神碑もかなりの数に上ります。もともとどこにあったのかわからないものも多くて——道祖神は、守られながら「動かされてきた」存在でもあるんです。

流行、廃仏毀釈——500基以上の道祖神碑が生まれた理由

安曇野を歩いていると、あちこちで道祖神碑を目にします。そもそも道祖神とは何の神さまなのでしょうか?

宮本

道祖神がどういう神さまなのか、私のほうからひと言で話すのは、実はすごく難しいところがありまして。

小穴

そうですよね。私が以前いろいろと調べてみたところ、道祖神は「障(さえ)の神」「塞(さい)の神」「岐(ふなと)の神」などとも呼ばれていて、村の辻や入口に祀られ、外から村に入ってくる悪霊や災いを防ぐ役割を果たしていたものを、一般的には指すようです。

ただ、安曇野で暮らす私たちにとって道祖神は、縁結びの神であり、夫婦和合の神であり、子孫繁栄の神であり、五穀豊穣の神でもあるんです。

男女対の道祖神碑

銀行前の生垣にも道祖神の姿がある

水は、あまり関係ないのですか?

小穴

そうですね。水の神さまとは、また異なります。水で苦労した土地ではあるのですが、水害の多い地域というわけではなく。

宮本

道祖神は、「道」という文字が入っているように、「道の神さま」、そこから転じて「旅の安全を守ってくれる神さま」などと呼ばれることもあります。

道祖神の起源と意味については、本当にいろいろな説があって、民俗学の研究者でも、なかなか結論づけられない領域なんです。安曇野の道祖神に関しては、その土地に住む人の多様な願いごとや祈りが、だんだんと重ね合わされていったものではないかと考えられています。

説明する宮本さん

安曇野には、どれくらいの数の道祖神碑があるのですか?

小穴

文字だけが刻まれたものや自然石をそのままの形で祀ったものを合わせると、安曇野市内だけで500基以上あると思います。年代が確認できるものとしては、いまから280年ぐらい前の寛保元年(1741年)につくられた、三郷上長尾の道祖神碑が現存する最古のものです。

宮本

一般的に、道祖神碑は石を神さまの「依り代」に見立てたのがはじまりだといわれています。しかし、昔は石を彫る技術がなかったので、自然石をそのまま道祖神として祀っているものもあって。その後、石を彫る技術が発達して、いまのような道祖神碑が、あちこちにたくさんつくられるようになりました。

そして自然石の道祖神碑は、石彫りの道祖神碑が新しくつくられると、次第に打ち捨てられていく傾向があります。役目を終えたら神ではなくなる——信仰を失い、忘れられた道祖神碑は、消えていく宿命を持っているともいえます。

市内山中の集落(現在、人は住んでいない)の道祖神碑。苔むして、土に埋もれつつある(写真提供:豊科郷土博物館)

宮本

安曇野では、江戸時代の末期から明治時代にかけて、道祖神碑が盛んにつくられ、広く信仰されていました。これは私の想像ですが、この時期に安曇野で道祖神碑が増えていった背景のひとつとして、先ほどお話しした江戸時代中頃から行われた堰の開鑿があると考えます。

田んぼが広がって米が獲れるようになってから、少しずつ人々の暮らしが豊かになり、経済的にも精神的にもゆとりが生まれた。そこから、「石を彫って神さまをつくろう」という機運が生まれていったのではないかと。

小穴

個人的には、神さまにも、一種の流行があったのではないかと感じています。ある村がつくった道祖神碑と同じようなものを、となりの村でも真似してつくったり。同時代に彫られた道祖神碑を比較すると、モチーフなどに共通点が見られることもあるんです。

お話する小穴さん

宮本

モチーフといえば、一対の男女が彫られた「双体道祖神碑」が非常に多いのも安曇野の特徴ですね。

ただ、なぜ道祖神が男女の一対として描かれるようになったのか、その起源も実ははっきりとわかっていません。明治時代に松本藩庁が出した文書の記録では、「猿田彦尊(さるたひこのみこと)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)*¹である」と書かれているのですが、そこには「廃仏毀釈」も関係していたようで……。

*1 猿田彦尊は交通安全、教育の神さま、天鈿女命は歌、舞、芸能の神さまとして知られる。二人は夫婦関係である

神道と仏教を切り離す明治新政府の「神仏分離令」をきっかけに、全国各地で寺院や仏像が破壊された運動のことですね。

宮本

そうです。安曇野は松本藩(現在の松本市を中心に存在した藩)領だったのですが、松本藩は廃仏毀釈が大変激しく、浄土真宗のお寺は多く残ったものの、それ以外の多くは廃寺を余儀なくされました。その際、仏教に関する路傍の石碑は破棄するよう命じられたのですが、道祖神碑に彫られているのが猿田彦と天鈿女であるとすると、これは「神道」に属するものであるため、道祖神碑は破棄対象にならないとされました。

ただ、だからといって双体道祖神碑が本当に猿田彦と天鈿女を描いたものだったのかというと、そうであるとは限りません。実際、道祖神が男女であるのは、美しい兄と妹の悲しい伝説が起源だという説もありますし、七夕の時期に織姫と彦星に見立てて道祖神のお祭りをやる地区もあります。

—結局何がモチーフだかわからないけれど受け入れている。なんだか、そこにも安曇野のおおらかな気質が反映されているように感じます。

宮本

そうかもしれませんね(笑)。

子どもが主役、郷土料理が並ぶ。道祖神祭りは「地域のコミュニティ」だった

安曇野には「道祖神祭り」というものがあるとうかがいました。どのような祭りなのでしょう?

宮本

安曇野でいちばん大きな祭りは、穂高神社の「御船祭り」といえますが、それは道祖神とはあまり関係がありません。道祖神はいわゆる「民間信仰」なので、道祖神祭りも、それぞれの地域の人々が主導する小規模なものが多いんです。

具体的には、どんなことをするのですか?

宮本

代表的なものとしては、「御柱(おんばしら)」と「三九郎(さんくろう)」があります。御柱は、道祖神碑の近くにある広場で、紙垂(しで)などの飾り付けをした長い柱を正月の短い期間だけ立てるお祭りになります。

道祖神祭りの際に立つ御柱(おんばしら)

小穴さんが道祖神祭りの際に立てた御柱。色とりどりの紙の飾り付けも、紙垂の一種(写真提供:豊科郷土博物館)

宮本

三九郎は、全国的には「どんど焼き」などと呼ばれる小正月の火祭りです。道祖神碑の近くに櫓(やぐら)をつくって、そこで正月飾りなどを焼くお祭りになります。

小穴金三郎さん

小穴

三九郎の残り火で餅や正月飾りの団子を焼いて食べると一年間風邪をひかないといわれました。また、三九郎で焼いた炭を火種にして味噌を炊く(味噌のもととなる大豆を煮る)と味噌が腐らないといわれていて、子どもたちが家々を回り、三九郎の炭を売り歩いたこともあったんですよ。

道祖神のお祭りといっても、道祖神自体は、そこまで主役ではないのですね。

宮本

そうですね。安曇野の人たちにとって道祖神は、日々の暮らしのなかでいちばん身近な神さまなんですよね。実際、お寺や神社よりも、はるかに多くの数の道祖神が、安曇野にはあるわけで。だから、小正月のような行事も、道祖神碑のある地域の共有地で行うことが多いんです。夏のお盆の時期に、道祖神のお祭りをやる地区もありますし。それもまた、安曇野の民間信仰に根ざした特徴のひとつといえるでしょう。

安曇野で生まれ育った小穴さんにとって、道祖神はどういうものでしたか?

小穴

そうですね……神さまなんてわからない子どもの頃は、ただ「遊び場にあるもの」だと思っていました。道祖神碑は、ちょっとした広場にあることが多いので。

物心がついてきた頃から、地域の道祖神祭りに参加するようになるのですが、楽しみといえば美味しいものが食べられることでしたね。地域のお母さんたちが、郷土料理の豆腐汁だったり、普段は食べられない特別な料理をつくってくれるんです。

広場にブルーシートを引いて座る人々

道祖神の前で行われる宴会の様子(写真提供:豊科郷土博物館)

小穴

また、私の地域では「福俵」と呼ばれる俵を、御柱につけていて。お祭りが終わり御柱が納められる日に、その俵が子どもたちに下げ渡されるんです。そしてその俵を神輿に乗せ、子どもたちが地域の家を一軒一軒回っていくと、家の人たちがお小遣いを渡してくれる。これもまた大きな楽しみでしたね。

お金を藁紐に通したもの

道祖神祭りのために集められたお金

家へ上がる子どもたちとそれを迎える家主

「ご年頭(またはご年始)」という、道祖神を抱えた子どもたちが集落にある家をめぐり、新年の挨拶をする行事(写真提供:豊科郷土博物館)

色紙で飾りつけられた棒を持つ女の子

「オハナ」(マサキの枝に紙の造花をつけたもの)を配る道祖神祭りもある(写真提供:豊科郷土博物館)

宮本

安曇野の道祖神のお祭りは、子どもたちが主体になるものが多いんですよね。昔は、「道祖神組」などと呼ばれるその地域の家の長男だけが、お祭りを運営することができたとされています。その子たちは地区に残って、やがて家を継ぐからです。いまは少子化ですから、そのような習慣はありませんが。

地域を担っていく人材を育てる仕組みとして、お祭りが機能していたのでしょうか?

小穴

そういう面もあったと思います。早い話が、地域のコミュニティですよね。たとえば小正月の道祖神祭りは、地域の人間が久しぶりに顔を合わせる機会でもあったわけです。ちょっとご無沙汰しているような人も、そこで顔を合わせて「今年もよろしくお願いします」と挨拶を交わす。

宮本

だから安曇野の道祖神祭りは、宗教行事というより、地域の「習俗」、つまりならわしや習慣に近いものなのだと思います。道祖神の由来をはじめ、いろいろなものが積み重なったなかで、できあがっていったお祭りであり、習慣なんですね。

小穴

なのでお祭りの仕方も、地区ごとに本当にいろいろなものがあるんです。ただ、私が生まれ育った地区もそうなのですが、お祭りをやめてしまった地区も最近は結構あって。いちばんの理由は、やはり子どもの数が少なくなってしまったことですね。

飾り付けられた山車(だし)と、法被を着た男の子たち

夏に行われる道祖神祭りの様子(写真提供:豊科郷土博物館)

宮本

子どもが主体のお祭りだけに、やはり少子化の影響は避けられないところがありますね。いまは大人たちが「保存会」をつくって運営しているお祭りも増えています。やはり、「残そう」「続けよう」という強い意志を持った人がいないと、こういう小さなお祭りは、残念ながらなかなか続いていかないものです。

小穴金三郎さん

小穴

道祖神祭りって、単なる近隣住民の集まり以上の役割があると思うんです。新しく地域に越してきた人を迎える場にもなるし、ふだん疎遠になっている人と再び顔を合わせ、言葉を交わす機会にもなる。子どもが減るなど致し方ない事情もありますが、やはり絶やしたくないと強く思いますね。

御柱を地元の人たちとともに組み立てる小穴さん(写真提供:豊科郷土博物館)

安曇野警察署にも、新築の民家にも。現在進行形でつくられ続ける道祖神碑

安曇野の人たちと道祖神の関係について、変化を感じる部分はありますか?

宮本

そうですね……安曇野で暮らす人たちの意識の変化という意味で、ひとつ大きな出来事があって。NHKの連続テレビ小説『水色の時』(1975年)の舞台が安曇野で、そこで道祖神碑が何度も登場したんです。

道祖神碑が2基並んでいる

NHK連続テレビ小説『水色の時』のためにつくられた道祖神碑。アルプスの山々を背に佇んでいる

小穴

あれは、本当に大きかったですよね。安曇野の道祖神が、あのドラマで全国的に知られるようになりました。

宮本

そのドラマがきっかけで、安曇野が「道祖神の里」と呼ばれるようになり、安曇野の人たちにとっても重要なアイデンティティとなっていったように思います。

さらにそのあとの連続テレビ小説『おひさま』(2011年)でも、安曇野の道祖神碑が象徴的に描かれたんです。主人公が毎朝、道祖神碑に「おはよう」って挨拶してから学校に行くとか。ドラマという外の視点で切り取られたことを通じて、安曇野の人たちも、「これは安曇野ならではの風景だったのか」とようやく気づいたのではないでしょうか。

小穴

それまでは、誰もそんなことは思っていなかったですね。ごくごく当たり前のものとしてとらえていましたから。

たしかに、500基以上もあれば「道祖神の里」と呼ぶに相応しいですよね。資料などを調べると、400基以上あるとか、細かいものを入れると1,000基存在するとか、数に幅があるのは気になりますが……。

宮本

ああ、それでいうと、これも安曇野の大きな特徴として挙げられる部分ですが、実はいまだに道祖神碑はつくられ続けているんです。

え? いまもつくられているんですか?

宮本

はい。たとえば、安曇野警察署の前に「交通安全」と刻まれた道祖神碑があるのですが、それは新しくつくったものです。一般企業が新しく工場を建てる際に道祖神碑をつくるとか、個人が自宅を新築する際につくるケースも少なくありません。

もちろん、それらの道祖神碑は、いわゆる伝統的な道祖神碑とは異なるものかもしれません。しかし、それはそれで安曇野ならではのひとつの文化——道祖神碑の新しいかたちだと感じています。

道祖神碑という「もの」自体よりも、そこに寄せる人々の「想い」の方が重要であって、その「想い」はいまも健在ということでしょうか?

宮本

そう思います。そういう意味でも、やはり「習俗」に近いものなんだと思います。安曇野の人々の道祖神に対する想いは、「信仰」というよりは、「愛着」と呼ぶのがふさわしいかもしれません。

「安曇野らしさ」を道祖神に求めている人は、年代にかかわらず、いまも安曇野には多いように思います。道に当たり前のように存在する道祖神碑ですが、彼らへの想いは、大小あれど、安曇野で暮らす人たちのあいだでいまも生き続けているのではないでしょうか。

笑顔で並んで立つ小穴さんと宮本さん

この記事の内容は2026年6月23日掲載時のものです。

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Credits

取材・執筆
麦倉正樹
写真
上村窓
編集
服部桃子(CINRA, Inc.)

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