歴史ある寺社仏閣が立ち並び、日本文化の象徴ともいえる古都・京都。しかし意外なことに、京都市は家計調査*¹においてパンの年間消費量や購入額が常に全国トップクラスを誇る、日本屈指の「パンの街」でもあります。
なぜ、伝統を重んじるこの街に、西洋伝来のパン文化がこれほどまでに深く根づいたのでしょうか。
その謎を解き明かすべく、今回は京都のパン文化を牽引する二人のキーマンにお話をうかがいました。
見えてきたのは、「職人の街」、そして「学生街」という京都ならではの顔、そして異なる文化を生活のなかで受け入れてきた、人々の姿勢でした。
京都のパン文化を現場で支え続けてきたお二人の言葉から、「パンの街・京都」の歴史といまを紐解いていきます。
なぜ、京都に豊かなパン文化が根づいたのか
「日本文化の象徴」ともいえる京都。なぜ、この街に西洋からやってきたパンが根づき、豊かなパン文化が花開いたのでしょうか。
そんな疑問を解き明かすべく、まず向かったのは京都市南区に本社を構える、株式会社 山一パン総本店です。お話をうかがったのは、同社の代表取締役会長・山本隆英さん。山本さんは、パン食の普及や組合員の製パン技術の向上などを目的に活動する京都パン協同組合の理事長として、長年京都のパン文化を見守り続けてきました。
山本隆英さん
京都パン協同組合 理事長であり、株式会社 山一パン総本店 代表取締役会長。山一パン総本店は、1947年に京都で創業した老舗パンメーカーで、学校給食や地元スーパーへの卸を通じて京の食卓を長く支え続けている
京都人は「新しいもの好き」。和菓子の土壌が育んだパン文化の夜明け
—京都市は全国でも有数の「パンの街」として知られています。なぜこれほどまでにパンが根づいたのでしょうか?
山本
さまざまな理由が考えられますが、最大の理由は京都人が非常に「新しいもの好き」だからだと思っています。
そもそも、なぜ京都人が新しいもの好きなのか。これは私の仮説でしかありませんが、その端緒は明治維新にあると思っています。江戸から明治へと時代が切り替わる乱世のなか、京都には全国から「新しい時代」を夢見る志士が集まり、維新への道筋をつくりました。その過程で、受け継ぐべきものを守るだけでなく、新しいものを尊ぶ文化が自然と醸成されていったのではないかと。
そうして幕を明けた明治時代において、パンはまさに「食の最先端」のひとつでした。その新しさが、大きな変化の真っ只中にあった京都の人々の感性に触れ、日々の暮らしのなかへ自然に入り込んでいったのではないかと思っています。
—パンが一般化するのは明治時代に入ってからかと思いますが、それ以前から「新しい食べもの」としてのパンを受け入れる土壌が育っていた。
山本
はい。日本においてパンが一般化するきっかけをつくったのは、東京・銀座木村家の創業者である木村安兵衛です。彼が1874年に売り出した「あんぱん」の大ヒットによりパンは一般に広く親しまれるようになりました。
そして、京都初のパン屋とされる「西洋軒」の創業者・中井栄三郎も、銀座木村家で修業した人物。京都にはもともと豊かな和菓子文化があり、「あん」への親しみがあったからこそ、あんぱんという和洋折衷の新しい食べものがスムーズに受け入れられたのだろうと思います。

山本
大正時代くらいから喫茶店も入ってきて、当時目新しかったコーヒーも、パンと一緒に嗜まれるようになりました。その影響もあり、京都はいまもコーヒーの消費量*2が日本一なんです。
*2 総務省:家計調査(二人以上の世帯)品目別都道府県庁所在市及び政令指定都市(※)ランキング2023年(令和5年)~2025年(令和7年)平均(飲料)
各都道府県における、明治以降のパンに関する歴史をまとめた書籍『パンの明治百年史』(パンの明治百年史刊行会、1970)。取材中、山本さんはこの書籍を開きながらさまざまな質問に答えてくれた
キーマンは、職人と学生。大正期から昭和期における「パンの大衆化」
—パンが一般市民の生活に一気に普及したのは、いつ頃のことですか?
山本
大正時代から昭和初期にかけてですね。このとき普及に一役買ったのが、日本の伝統文化を支える職人たちです。
京都は西陣織をはじめとする「職人の街」でもあります。忙しく働く西陣の職人さんにとって、仕事の合間に片手で手軽に、かつ汚れを気にせず食べられるパンは非常に合理的な食事でした。当時はパン屋さんが大きな箱いっぱいにパンを詰めて、お昼や15時のおやつの時間に西陣を訪れ、職人たちはこぞってパンを買い求めていたそうです。
—京都といえば「学生の街」という側面もありますよね。
山本
学生さんたちの存在も非常に大きいですね。
その象徴が、今出川通りです。今出川通りは、京都の街を東西に横断するメインストリートのひとつで、その東端には京都大学、西端には立命館大学があり、その間には同志社大学や同志社女子大学などが立ち並んでいます。この通りはさきほどお話しした西陣エリアからも近く、古くから職人さんや学生さんをターゲットにしたパン屋が多く集まっていました。

山本
大正8年創業の老舗パン屋「大正製パン所」は、今出川通り沿いの、西陣にほど近い場所にあり、かつては西陣織の職人さんたちにパンを届けていたと聞いています。この今出川通りは、いつしか「パンストリート」と呼ばれるようになり、現在もその愛称で親しまれています。
山本さんが代表取締役会長を勤める山一パン総本店の創業は、1947年。同社もまた、長きにわたり京都のパン文化を支えてきた1社だ
「朝食はパン」を浸透させたのは、京都の女性たち?
—先ほど、西陣の職人さんたちはお昼やおやつにパンを楽しんでいたというお話がありましたが、現代の京都ではどのようなスタイルでパンが楽しまれているのでしょうか。
山本
一般的には朝食にパンを食べる人が多いように思います。それは「京都の女性が『強い』から」なのではないかと。あくまでも、私見ですが。
—女性が「強い」から、京都の朝にパンが根づいた?
山本
はい。一般論として、京都の女性は「芯が強い」といわれています。
パンが一般家庭に普及しはじめた昭和初期といえば、朝食は「ご飯に味噌汁、焼き魚」が定番。そして当時それを準備するのは主に女性でした。
時間も手間もかかる朝の支度を前に、少しでも負担を減らし、かつ満足感のある食卓を整えたい。そうした切実な願いのなかで、手軽に準備ができて腹持ちもよいパンは、忙しい朝を支える合理的で「新しい」選択肢として、家庭の食卓を預かる女性たちに「これがいい」と選ばれていったのではないか——もちろんこれは個人的な想像ですが、それが京都の朝にパンが定着した一因だったのではないかと思っています。

山本
準備も片付けも、より手軽に済ませられるパンとコーヒーが、朝食として出されるようになったのではないかと思うんです。「あんた、これ食べとき」ということですね(笑)。
「碁盤の目」が守るパン屋の共存。次世代へつなぐ食の多様性
—京都では現在も、新たなパン屋さんが次々と生まれているそうですね。これほど多くのパン屋さんが共存できるのはなぜなのでしょうか。
山本
それは、街の「つくり」に関係しているのではないかと思っています。京都の街は平安時代につくられた「碁盤の目」状の構造になっているわけですが、このことが個性豊かなパン屋の共存に影響を与えているのではないかと。
業種によって「同業種との適切な距離」があるといわれています。たとえば居酒屋であれば、密集したエリアに出店するのが定石。「あのあたりに行けば空いているお店があるだろう」と、ふらっと訪れたお客さんや二軒目に行くお客さんを取り込めるからです。
一方、パン屋は一定の距離を保って出店する方が、互いに共存を図れます。碁盤の目状に区画された街では、地図を見れば「このあたりなら参入の余地がある」という状況を見極めやすく、近隣店との距離感も把握できる。結果として、お互いの領域を守りながら「適地」を選んで商売ができるわけです。これが多様な個店が並び立つ理由のひとつでしょう。

山本
バブル期には、祇園のスナックのママたちがお客さんへの手土産として1斤1,000円の「デニッシュ食パン」を渡す文化が広まりました。京都はデニッシュ食パンブームの先駆けでもあったといえるかもしれません。
—街の構造も、パン文化の発展に寄与している可能性があるんですね。最後に、今後の京都のパン文化への思いをお聞かせください。
山本
多様な京都の食文化のひとつとして、次世代にパンを受け継いでいきたいと思っています。
山一パンでは学校給食のパンも提供しているのですが、2013年に「和食:日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されたことをきっかけに、行政のあいだでは「給食はお米を中心にすべきではないか」という意見も挙がりました。
しかし、和食が世界遺産になったからといって、和食だけを食べさせることが子どもたちのためになるとは思えません。ご飯もパンも麺も、多様な食を子どもの頃から経験させること。その積み重ねが、自分の「おいしい」という感覚を養い、将来、自ら納得のいく食を選んで暮らしを組み立てていく力につながるのだと考えています。
実は、京都パン協同組合としても、かつて「夕ご飯にもパンを」という取り組みをしたのですが、まったく広まりませんでした(笑)。朝はパン、夜はご飯といった「住み分け」を大切にしながら、この多様性豊かな京都の食文化を、次世代にも守り伝えていきたいですね。
山一パン総本店の社内には、給食で山一パン総本店のパンに親しんでいる子どもたちからもメッセージが掲示されていた
「日々の糧」としてのパンと、これからのパン文化
次に向かったのは、京都を南北に走る寺町通り。
長い歴史を持つ茶舗や洋菓子店と、現代的な雑貨屋やカフェなどが建ち並ぶ、京都でも人気のこのエリアにあるのが、1913年創業の進々堂寺町店です。
創業者の続木斉氏は1924年、日本人最初のパン職人の留学生としてパリへ渡り、フランスパンを京都で製造販売しました。その後、1952年に日本初のスライス包装食パン「デイリーブレッド」を発売するなど、進々堂は3代にわたって京都の食卓に革新を届け続けています。
そんな伝統を大切に紡ぎながら、いまなお多くの人でにぎわう同店を訪ねたのは、ちょうどお昼時のこと。ランチを求める多くの人で賑わうこの場所でお話を聞いたのは、株式会社進々堂の3代目社長である続木創さん。お店を経営するなかで実感してきた、京都とパン文化のつながりについてうかがいました。
進々堂寺町店。レストランスペースも併設し、お昼時にはイートインを利用する人も含めて大変な賑わいを見せていた
京都に根づく「多様性」を受け入れるしなやかな精神
—現場の第一線でパンと向き合い続けてきた続木さんは、なぜ京都にパン文化が根づいたと考えていますか?
続木
私は「ミッション系の教育機関」が関係しているのではないかと思っています。
あくまで私の実感ではありますが、京都では伝統文化の担い手はご自身がクリスチャンではない方がほとんどでありながら、自分の子どもをキリスト教系の学校に入学させることが多いんです。たとえば、私が理事を務めるキリスト教系のある幼稚園には、有名料亭や老舗和菓子店のお子さんが大勢通っていますし、卒業後もプロテスタント系の同志社や、カトリック系のノートルダム学院といった私立小中学校へ進むお子さんが多いように感じます。
伝統を背負う家系で育った方々が、幼い頃から西洋式の教育を受けてきたことで、「多様な生活文化を暮らしに取り込む精神」が根づき、それが受け継がれてきた。京都には、そのような「土壌や文化の流れ」が古くから息づいているのだと感じています。
続木創さん
株式会社進々堂3代目代表取締役社長。祖父である斉さんが1913年に創業した進々堂を受け継ぎ、京都の人々に「毎日のパン」を届け続けている
—京都文化の担い手たちの「教育」が、自然に行われてきたと。
続木
そのとおりです。こうした姿勢は、決して近年になって生まれたものではありません。これは進々堂の歩みとも深くかかわっています。
創業者である私の祖父・続木斉は1913年に進々堂をオープンしました。1924年には日本人のパン屋としてはじめてフランスに渡り、帰国後京都でフランスパンを再現させるべく研究に没頭したといいます。
当時、そのフランスパンを真っ先に喜んで買いに来たのは、近隣の同志社大学に赴任していた宣教師の方々だったといわれています。そして彼らを通じて、フランスパンが徐々に京都の人々のあいだにも広まっていったそうです。このことからも、京都に数あるキリスト教系の学校が、京都におけるパン文化の浸透に与えた影響は大きいと思っています。

続木
私の祖母であるハナの日記には、同志社女学院のデントン先生の自宅でクッキーを一緒につくったという記述も残っています。
現在もフランスパンは進々堂の人気商品のひとつ
「明日のパン買わな」——京都の朝食を変えた、デイリーブレッド
—進々堂のフランスパンが、京都のパン文化に大きな影響を与えた、ともいえそうですね。
続木
実は、いまでは当たり前の「あらかじめスライス包装された食パン」を日本で最初に販売したのも、進々堂なんですよ。「デイリーブレッド」という商品名で、1952年に発売されました。それまでは一本まるごと売られていたため、自宅で食べる際にはいちいちスライスしなければなりませんでした。
そこで、最初からスライスして販売することにしたのです。これが「便利でおいしい」ということで爆発的なヒットとなり、朝が忙しい京都の商家さんの間で、「朝食に食パンを食べること」が定番になった。便利でおいしいパンが、京都の家々の食卓に欠かせないものとして溶け込んでいったわけですね。

続木
京都の人はよく「明日のパン買わな」と言いますが、かつては「パンを買いに行く」といえば進々堂の「デイリーブレッド」をさすほど、深く地域に浸透していました。
進々堂の看板には、店名とともにフランス語で「DONNE-NOUS AUJOURD’HUI NOTRE PAIN QUOTIDIEN」という言葉が刻まれている。これは、新約聖書にある「主の祈り」の一節で、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という意味。「毎日食べても飽きない主食としてのパン」を提供したいという願いが込められている
続木
進々堂は創業以来、「日々の糧としてのパンを提供する」という精神を一貫して大切にしてきました。私たちのお店にレストランスペースを併設しているのも、日常的に主食としてのパンを楽しんでもらいたいという気持ちからです。パンはどうしても朝食のイメージが強いですが、ランチやディナーでももっと気軽にパンを味わえる場所をつくりたいと。
進々堂寺町店は、入って左側にレストランスペースが。ランチでは、おかわり自由のブレッドと、煮込みハンバーグやビーフシチューが味わえる
—長年、京都のパン文化を支えてきたなかで、最近感じている変化などはありますか?
続木
この10年で、パンづくりが本当に楽しくなりました。
たとえば、クロワッサンをつくるのに、バターを使うとどうしても販売単価は300円を超えてしまいます。だから、10年以上前まではマーガリンを使いながら価格とのバランスを取る工夫が必要でした。
しかし、この10年で価格は少々高くても「自分がどんなパンを食べたいか」でパンを選んでくれるお客さまが増えたんです。クロワッサンも、素材やつくり方に納得したうえで選んでいただけるようになり、よい材料にこだわった商品がしっかりと売れるようになった。パンのおいしさを理解し、楽しんでくれる層が確実に厚くなっているわけです。だからこそ、私たちも全力で最高の品質を追求できます。
京都産小麦で描く、パン文化の次なる100年
—今後は、どのようなパンづくりに取り組んでいきたいと考えていますか?
続木
京都のパン文化のさらなる発展に貢献したいと思っています。
これまでも、九条ねぎなど「京都ならでは」の食材をつかったパンを開発してきました。なかでも人気なのが、「しば漬カレーパン」と「すぐきピロシキ」です。観光客向けと思われるかもしれませんが、日常的に進々堂を利用してくれる方々に「しば漬やすぐきって、こんな食べ方もあったんや」と思ってもらいたくて開発したもの。結果的に、地元の方にも観光客にも喜ばれています。
京都で長年愛されている打田漬物の「しば漬」と進々堂がコラボした「しば漬カレーパン」(左)と、「すぐきピロシキ」(右)。カレーパンのしば漬は、通常とは異なり、カレーパン専用に開発されている。ピロシキの「すぐき」は、カブの仲間で京都の伝統野菜のひとつ(画像提供:進々堂)
—あくまでも「日々の糧としてのパン」にこだわりながら、京都の伝統的な食材とパンを融合させているわけですね。
続木
その姿勢を大切にしながら、2024年に創業者のフランス渡航100周年をきっかけに、新たな挑戦として京都府産小麦を使ったパンづくりを本格的にはじめました。京都の小麦生産量は年間わずか300トンほど。60万トンを誇る北海道とは比較にもならない少なさです。需要が限られているから、小麦農家さんたちは作付けを増やせずにいる。
年間で900トンもの小麦を使用している進々堂が、京都産小麦を使い続ける強い意志を持てば、農家さんたちは安心して作付面積を増やせるはずなんです。
京都産小麦はグルテンが弱くパンづくりには不向きとされていますが、あえて挑戦したのはフランスのパン文化に学んだからです。フランスのパン文化を根底から支えているのは、徹底した「地産地消」。その土地の小麦・牛乳・バター・卵を使うことがパン屋の誇りであり、パン文化の根底をなしているんです。私たちが京都産小麦にこだわるのも、そうした「農業の延長線上にあるパン文化」——つまり、日々の暮らしと地続きのものとして京都に根づかせたいからです。
—京都産小麦をつかったパンづくりは、本場・フランスに培われたパン文化の価値観を京都に根づかせるチャレンジでもある?
続木
そのとおりです。京都ですべての原材料を地産地消にするのはほぼ不可能なので、せめて小麦だけでも京都産のものを少しでも多く使いたいと考えました。地元の方々はもちろん、世界中から京都に訪れる方々に、京都産小麦の素晴らしさを伝えることが、これからの進々堂の使命だと思っています。
京都産小麦にしか出せないおいしさを引き出すために、配合や工程をゼロから研究し直し、納得のいく味を完成させました。その結果、バゲットやクロワッサン、ドーナツなど、いまでは京都産小麦をつかったパンは新たな人気商品となっています。いまも京都産小麦の可能性を追求して日々進化中です。このチャレンジを支えてくださるたくさんのお客さまがいることこそ、京都のパン文化が真に成熟してきた証なのだと思います。
続木さんが「一番の自信作」と語る、京都産小麦を使った「京どをなつ」シリーズ。ふわふわモチモチとした食感と、優しい味わいが特徴の逸品
この記事の内容は2026年5月19日掲載時のものです。
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Credits
- 取材・執筆
- 鷲尾諒太郎
- 写真
- 原祥子
- 編集
- 篠崎奈津子(CINRA, Inc.)







