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ローカルガストロノミーは鶴岡をどう変えた?生産者・料理人・行政が紡ぐ12年の軌跡
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「食で街をつくる」。12年という歳月をかけて、それを体現してきた地域があります。それが、山形県鶴岡市。2014年12月に日本初の「ユネスコ食文化創造都市」に認定されてから、独自の「ガストロノミー(美食文化)」を進化させ続けています。
鶴岡の食文化は、「美味しい食材や名物料理がある」というだけで語れるものではありません。バラバラだった生産者、料理人、行政が立場を超えてつながり、文化を継承していくために地域全体が連携して動くネットワークを育ててきたことに真の価値があります。
12年かけて食をめぐる豊かな関係性を育てていった道のりと、これからのローカルガストロノミーの展望について、鶴岡ガストロノミーを牽引する小野愛美さん(FOOD SHIFT SHONAI)、齋藤光さん(鶴岡市企画部食文化創造都市推進課)、古門浩二さん(「gira e gira(ジーラジーラ)」オーナーシェフ)の3名にうかがいました。
地域に継承される豊かな食文化。なぜ鶴岡のローカルガストロノミーはユネスコ認定された?
―鶴岡市は2014年12月に日本初の「ユネスコ食文化創造都市*¹」に選ばれました。どういった点が評価されたのでしょうか?
小野
ユネスコ食文化創造都市の認定基準は「食文化を通じて持続可能な発展に取り組む都市であること」です。鶴岡市の場合も、「美味しいものがたくさんある」ということではなく、風土や歴史と食文化が深く結び付いていることが評価されました。
具体的に言うと、出羽三山(でわさんざん)*²という聖なる山に育まれた1,400年もの信仰と文化の歴史が、鶴岡の食文化の背景にあります。全国から集まる修験者がもたらす日本各地の文化を、柔軟に受け入れてきた市民性が土台にあるんです。
出羽三山の信仰を受け継いできた鶴岡の人たちは、自然に対して畏敬の念を抱いて暮らしてきました。だからこそ、食べ物を無駄にしない保存食の文化や、庄内地方に伝わる11月の「田の神上げ」、12月の「大黒様のお歳夜(おとしや)」といった五穀豊穣に感謝する行事食が生まれ、いまも一般の家庭にごく自然に根づいています。
*1 ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が2004年に創設した、食文化を通じて地域の活性化や持続可能な開発をめざす取り組み
*2 山形県にある羽黒山・月山・湯殿山の総称で、日本を代表する修験道の聖地
小野愛美さん
gira e giraの前に広がる美しい田園。米どころ・鶴岡の豊かな風土を五感で感じられる
小野
また、自然への感謝が日常のベースにあるため、無理に季節外れのものを食べない人が鶴岡には多い。いまあるものを美味しくいただく、という感覚を当たり前のように持っているように思います。
―鶴岡市民が食を大切にし、哲学を持っていることが伝わるお話ですね。
小野
そうですね。そうした地域独自の食に対する姿勢がもっとも色濃く表れているのが「在来作物*³」です。
世代を超えて各農家さんが自家採種で栽培を続け、いまも鶴岡の食卓には、ごく身近な食材として息づいています。100年前から栽培されているものも珍しくなく、なかには400年前から根づいているものもあるといわれています。
たとえば鶴岡で栽培されている枝豆だけでも20種類以上あり、なかでも「だだちゃ豆」が有名ですが、産直に買いに行くと、だだちゃ豆のなかでもさらに細分化された「白山(しらやま)」などの品種まで書かれて売られている。鶴岡市民の食に対するこだわりの強さを感じますよね。
*3 特定の地域で、世代を超えて、栽培者によって種苗の保存が続けられ、特定の用途に供されてきた作物
鶴岡で受け継がれてきた在来の枝豆「だだちゃ豆」
―いまの説明だけでも、長い歴史のなかで受け継がれてきた鶴岡の奥深い食文化が感じられます。齋藤さんにおうかがいしたいのですが、行政としてそうした鶴岡ならではの「食文化」を軸に地域づくりを進めようと考えた理由を教えてください。
齋藤
最も大きな契機は、2005年の6市町村合併です。それまで別の自治体として、それぞれ異なる歴史・文化・風土が育まれていた地域がひとつになりました。それらの地域をひとつにまとめるために、共通の目標として着目したのが「食」だったのです。そこから2011年に鶴岡食文化創造都市推進協議会を設立してユネスコへの申請の準備を進め、2014年12月に、日本初のユネスコ食文化創造都市に認定されました。
認定の意義は大きかったと思います。市民にとって当たり前だと思っていた「旬のものを旬のうちに食べる」という習慣や行事食が世界に評価されたことで、「自分たちにとって誇れるものなんだ」という気づきにつながりました。
齋藤光さん
―古門シェフは、18年前に県外から移住してこられたそうですね。当時の鶴岡の食や風土にどんな魅力を感じましたか。
古門
移住する前に何度かこちらに来たとき、まず景色に惹かれました。そして水が美味しくて、何より空気に「ぬくもり」を感じたんです。産直で野菜を買って食べると、ちゃんと土の香りがして、水だけで育った野菜じゃないと思いました。「こういうところで最期を迎えたいな」と思ったのが、移住したきっかけです。
「食材の宝庫」であることは、実際に暮らすようになって知りました。しかも、精神文化、発酵の文化、在来作物の文化などが、いまの鶴岡の食につながっている。その背景も含めて、知れば知るほど奥が深いなと思いましたね。
古門浩二さん
古門さんのお店「gira e gira」。「巡り巡って」という意味を持つ店名に、シェフの想いが込められている
「点」から「面」のネットワークへ。生産者と料理人をつないだ地道な対話と仕組みづくり
―ユネスコ認定を受けてから、具体的にどのような活動をとおして「食によるまちづくり」や食文化の創造、継承を実現していったのでしょうか?
小野
ユネスコに認定されただけで終わりにするのではなく、これを持続的かつ発展的な取り組みにつなげていく必要がありました。というのも、認定された当初は、市民も料理人も「ユネスコって世界遺産?」という反応で、認定に向けて何年もロビー活動を続けてきた人たちと、一般市民とのあいだには温度差がかなりあったんです。
そこで鶴岡食文化創造都市推進協議会の事業推進員として活動をはじめた私は、まずは飲食店の皆さんにユネスコ認定の意義を知ってもらうこと。逆に、私たち自身が地域の飲食業と飲食業にかかわる人たちの仕事を理解し、誰がどんな活動をしているのか把握すること。さらには、当時バラバラだった生産者と料理人をつなぎ合わせることが何より必要だと考えました。
2014年にユネスコ創造都市に認定された際の様子(写真提供:鶴岡市食文化創造都市推進課)
小野
1年目に企画したのが、まちバル企画「鶴岡のれん」です。参加してくださった店舗を自分の足で全店回り、どんなお店が、何を、どんなふうに、どのくらいの価格で出しているのかを知ることからはじめました。実際に食べ歩いたことで、各店舗の特色が浮き彫りになり、地域全体の飲食産業の現在地を正確にとらえることができたのです。
現状を把握する一方で、関係者同士の対話の場もつくらなければならないと考えました。同時期にはじめたのが、毎月1回、夜の9時から飲食店や生産者の方々と行う、いわゆる「飲みニケーション」です。最初の1時間は「ユネスコ食文化創造都市とは何か」をレクチャーし、それから飲む!(笑) 会の終わりには「次は新しい人を1人連れてきてね」とお願いし、メンバーを入れ替えながら1年間続けました。
「鶴岡のれん」が開催されていた際に配布していたパンフレットなど(写真は2016年のもの)。参加者は、参加店舗を訪れ専用のチケットを使用すると、旬の食材を使った「のれん限定メニュー」と1ドリンクが楽しめる(写真提供:小野愛美さん)
―ただの飲み会ではなく、継続的に集まって理念を共有する仕組みづくりだったのですね。
小野
はい。単に仲良くなるというだけでなく、そうした場を通じて、地元の料理人の方々に鶴岡の食文化について理解を深めてもらい、より関心を持ってもらう狙いもありました。実際、多くの方が「もっと知りたい」とおっしゃってくれて、具体的に「こういうことを学びたい」という現場のリアルな声を聞くことができたのは大きかったですね。1、2年目はそんなふうに、現場との対話を重ねながら課題やニーズを拾い上げ、信頼関係を築いていくことに注力しました。
―現場から上がってきた「学びたい」という声は、その後どのようにかたちになっていったのですか。
小野
現場の熱意を行政に届けた結果、市の事業として反映されることになりました。こうして3年目に立ち上がったのが「食文化創造アカデミー」です。調理技術を教えるのではなく、「ガストロノミー*⁴」そのものを学ぶためのプログラムです。座学8講座と現地学習4講座の年12講座で、農業の生産現場にも漁業の現場にも足を運びました。
アカデミーがめざしていたのは「料理人は表現者である」という視座を育てること。「鶴岡の食」を表現してくれるのは、地域に根差した料理人たちにほかなりません。言い換えれば、「料理人をいかに高みに連れていくか」が、持続可能な食による地域振興の命運を握るのではないかと思ったのです。
*4 料理の背景にあるストーリーや芸術性、科学的要素までを含めて食を深く理解する概念
静岡県焼津で60年以上続く「サスエ前田魚店」の5代目店主・前田尚毅さんによる講座。「食文化創造アカデミー」ではさまざまな講師を迎え、地元の料理人に技術を伝えていた(写真提供:小野愛美さん)
小野
私はもともと、生産者の想いや地域の歴史までをお皿の上で表現する料理人の仕事を、国民みんなで讃える社会にしていかなければいけないと考えていました。アカデミーにはそうした想いに共感した全国のトップシェフやフロントランナーが講師として応援に来てくださり、他県からも受講生が集まりました。
生産者と料理人が現場で交流し、そこにトップシェフたちの視点が加わる「ネットワークのかけ算」によって、地域全体で食に向き合うための共通の思想やめざすべき方向性をしっかりと合わせることができたと思います。
―アカデミーを通じて料理人の意識が高まったのち、その熱量をどのように次のステップへつなげていったのか教えてください。
小野
アカデミーの設立から2年後、さらなるステップアップとして料理人のコンペティションを立ち上げました。これは食文化創造事業の市民への成果報告でもあり、料理人たちの自己研鑽の場でもありました。その第1回グランプリに輝いたのが、当時若手シェフだった齋藤翔太さん(鶴岡市にある日本料理屋「庄内ざっこ」料理人)です。彼にはグランプリの特典として「あなたのやりたいことを私がプロデュースする」と約束したんです。
齋藤さんが強く危惧していたのは「食文化の継承ができるかどうか」でした。「自分たちが育んできた郷土の食文化を次の世代に伝えたい」という彼の想いを実現するために立ち上げたのが、食育を軸とした民間団体「サスティナ鶴岡」です。料理人や生産者が講師となり、子どもたちに地元の食材の背景や調理の楽しさを伝える体験型の食育活動を2021年にスタートさせました。
サスティナ鶴岡では子どもたちに食文化を伝える取り組みも実施していた(写真提供:小野愛美さん)
―料理人や生産者の方々が自ら率先して食育に取り組むという大きな動きにつながった背景には、何か特別なきっかけがあったのでしょうか。
小野
背景にはコロナ禍がありました。当時は人と食事することが難しい状況となり、飲食店は休業、給食は停止し、売り先を失った生産者は大量の野菜を廃棄せざるを得ませんでした。そのとき飲食業界全体が「自分たちがやっているのは、ただお腹を満たすことではない。食を通じたコミュニティや文化の継承こそが自分たちの責任なんだ」と気づかされたのです。
サスティナ鶴岡には5年間で延べ1,250人の親子が参加してくれました。地域企業の協賛も含め、街ぐるみで地域の食を育てる土壌ができたのではないかと思います。
「顔の見える関係」が、まちを動かす。生産者・料理人・行政が育んだ信頼のかたち
―料理人と生産者が一丸となって食育に取り組むようになるまでには、両者のあいだに強固な信頼関係が必要だったと思います。古門シェフは、移住された当初から農家さんとのつながりは深かったのですか。
古門
東京では生産者指定で食材を仕入れるスタイルが広まりつつあったと思いますが、18年前に移住してきた当時、鶴岡の飲食店では地元の農家さんとの直接的なつながりがありませんでした。地元の料理人に「野菜はどこで仕入れてるんですか?」と聞くと「スーパー」と答えるような状況で。農家側も料理人とのつき合い方がわからないし、その頃の生産者さんは自分の親世代の人たちが中心だったのもあって、直接やりとりをする手段も少なかったんです。
そこで、私自身も生産者と料理人が出会う場をつくらなければと思い、移住してきた年に料理教室を企画しました。テーマとなる食材を育てている生産者の方を呼び、それを使った料理を参加者でつくって食べ、食材を直接買って帰れるようにしたんです。すると、蓋を開けてみれば、集まったのは一般のお客さんではなく、地元の料理人ばかりだった。
小野
あの料理教室、めっちゃ懐かしいですよね。同業者がこぞって集まって、「自分たちも生産者とつながりたかったんだ」と盛り上がっていました(笑)。
古門
そんな草の根活動だったり、小野さんや鶴岡市の取り組みもあったりして、ここ10年で農家と料理人の関係性はかなり変わってきました。
農家さんとのつき合い方が深まっていくと、農業の仕事の「流れ」が見えるようになるし、作業工程や苦労、季節ごとに出てくる品種の違いもわかってくる。お互いの困りごとが解決しやすくなりましたし、そのうち「明日から白山(だだちゃ豆)出せるよ」といった具合に直接連絡が来るようにもなりました。
仕入れの発想も完全に逆転しました。東京にいた頃は「メニューを決めて、トマトを注文する」でしたが、いまは「このトマトがあるから、青いか熟れているかを見て、この料理にしよう」と決める。ギリギリまで献立を考えず、実際に食材の「顔」を見てから考えるんです。それができるのは、ここ鶴岡の環境と12年かけて培ってきた農家さんとの関係性があるからこそですね。
gira e giraでは、三次郎茄子、勘次郎きゅうり、八角オクラ、弥四郎ささぎなどの在来種の野菜をふんだんに使ったメニューを提供している
―古門シェフたちのような現場の活動や、サスティナ鶴岡のような民間団体の動きが活発になるなかで、行政はそうした「民間の力」をどのように受け止め、連携を図ってきましたか?
齋藤
行政としては、「食文化創造都市推進プラン」に沿って、地域づくりと産業振興の2つを基本目標に、料理人育成や食文化継承などのさまざまな事業を行ってきました。ただ、行政の力だけではどうしてもカバーしきれない部分がありました。そこで、小野さんをはじめとする民間のみなさんには、民間ならではのスピード感を活かしながら、シェフをはじめとするさまざまな人を巻き込み、横のつながりを広げていく役割を担っていただきました。
2026年6月には、リニューアルオープンした出羽庄内国際村*⁵で、FOOD SHIFT SHONAIさんと協力して海外都市とのイベントも実施しました。同団体の設立記念も兼ねたもので、国内外のユネスコ創造都市から招いたシェフとFOOD SHIFT SHONAIのシェフたちが共創し、「紡ぐ食」をテーマにしたダイニングイベントです。お互いにできないことを補完し合える、よきパートナーとして協働しています。
*5 1994年にオープンした、世界と庄内を結ぶ国際交流拠点施設
―小野さんは、行政、料理人、生産者と、立場の違う人々をつなぐコーディネーターを務めてこられたと思いますが、大切にしてきたことは何ですか。
小野
3つあります。まずは、大きな方向性を揃えること。次に、短期的、消費的な関係を最初からつくらないこと。「このイベントのためだけに協力してほしい」という、その場限りの関係性にならないように心がけていました。最後に、「フェーズに応じた進化」を怖がらないこと。取り組みが育ってきたり、場が温まってきたりすると、そこから何かを変えるのは勇気がいります。でも、留まることは淀むことであり、現状維持は退化ですから。
ただ、ここまで取り組みを進められた最大の要因は、鶴岡の人たちが「驚くほど郷土愛が強いから」だと思っています。「こっちだよ」と方向を示すと、みんな自然と使命感を持って動いてくれる。私がしたことは、みなさんが本来持っている熱意に火をつけるための、ちょっとしたきっかけづくりにすぎません。
ローカルガストロノミーで地方から日本を変える。これからの10年で目指すこと
―行政、民間、そして料理人や生産者が一体となって走り続けたこの12年間。さまざまな活動を経て、市民の意識や街の空気にはどのような変化が生まれたと感じていますか。
齋藤
市民の意識という観点でいうと、シビックプライド(市民の誇り)の変化は着実に感じています。徐々にではありますが、「自分たちの食文化は価値あるものなんだ」という意識が市民に根づいてきました。また、料理人をはじめとした関係者の意識はとても高く、ほかの自治体などから行政視察にいらした際、民間の方々に対応をお願いしても、全員がユネスコの理念を踏まえて自分たちの言葉で話すことができるようになっています。
ただ、関係者の意識は高まってきた一方で、鶴岡市民全体という視点で見るとまだまだ発展途上だと感じています。たとえば、子どもへの食育は進んできましたが、大人の意識醸成は十分とは言い難い。これからさらに考えていくべき課題だと思っています。
古門
私は、お店に来てくれるお客さんの反応や言葉が大きく変わってきたと感じますね。10年前にベッダシチリアを開店した当初は「野菜がおいしいね」といった感想が多かったのですが、数年前から「これ、誰の野菜?」「もしかして○○さんのトウモロコシ?」と聞いてくる方が増えました。いまでは「今日は△△さんのトマトある?」とリクエストされるまでになっています。地元のお客さんだけでなく観光客の方も「この時期のこれを食べにきました」と言ってくださいます。
店のメニューにも生産者の名前を載せているのですが、単なる商品としての価値を超えて、生産者とお客さまをつなぐ「距離の近さ」がお店の魅力として伝わっているのだと思います。こうした傾向は、私の店だけでなくほかの店にも広がっていますね。
古門さんは店の前にある小さな畑でハーブや野菜を育てている。写真は畑に実った丸ナス。厚切りにして焼くと、ジューシーでトロトロの食感を楽しめるそう。古門シェフは、畑を始めてから、生産者の努力をお客さんに伝えたいという想いがより強くなったと語る
―鶴岡が成し遂げてきたことから学び、ほかの地域で「食」を通じた地域活性化に取り組みたいと考えている方に向けて、アドバイスやヒントをお願いできますか。
小野
まず、広い視点で中長期計画を立てること。そして一度立てたら「ぶれない」ことです。ビジネスと同じですね。また、私たちはあくまでも「文化」をつくっていると考えています。文化は一朝一夕ではつくれません。一朝一夕でつくれるものは、一朝一夕で崩れてしまう。長期的に釘を打ち続けることでしか、食で地域をつくることはできないと思います。
私たちは、これまでの人たちが築いてきた文化の上に生きていて、そこから次の時代の文化をいまつくっている。そういう視点を持つことが必要です。そして、個別の取り組みはどうしても「点」になりがちですが、いかにそれをつなげて「面」をつくるか。鶴岡では、面をつくらないと戦えないことを、取り組みにかかわる全員が理解しているんです。
古門
鶴岡の場合は、これまで長い時間をかけて地道につながりを紡いできたからこそ実現できています。「この地域全体をよくしたい」という想いが、かかわるメンバー全員の根底にずっとあったからこその結果だと思います。
―12年かけて強固な「面」をつくり上げた鶴岡ですが、最後に、これからの10年に向けたそれぞれの展望をお聞かせください。
古門
これからの10年、僕は料理だけが自分の役割ではないと思っています。人口は減っていきますが、鶴岡の関係人口は増やしていかなければならないなかで、地域の料理人として何ができるのかを真剣に考えるようになりました。
以前は、自分のことを「加工業者」だと思っていました。素材を美味しく加工して届ける役割だと。でもいまは、この土地の価値や意味をお皿に表現し、お客さまに直接伝える「翻訳者」だと思っています。それは自分だけでなく、この土地の料理人すべてが担っていくべきことだと感じています。
gira e giraのカウンターに積み上げられたお皿。食器選びもこだわりが感じられる
齋藤
行政としては、これまでと同様、特定の食材や名物料理だけを単品でPRするのではなく、季節ごとの食材と郷土食、そこに歴史や暮らしも重ねて、立体的にアピールしていきたいです。そうすることで「この料理を食べたからもういいや」ではなく、「いまの時期に行ったらこれが食べられる」というふうに、年に何度も足を運んでくださるリピーターを増やしたい。
なかには20年間、毎年来てくださる方もいらっしゃいます。そうやって訪れる方が増えることは行政としてもうれしいですし、市民のシビックプライドを育むことにもつながるはずです。今後も「食のまちといえば鶴岡」というイメージをしっかりと根づかせていきたいですね。
小野
次の10年も、私たちが「文化をつくる」という道を歩み続けることに変わりはありません。ただ、これからは単に引き継ぐだけでなく、次の世代を育てたり、文化が続くための仕組みをつくったり、経済的な持続可能性をちゃんと担保したりすることがより重要になってきます。だからこそ、「サスティナ鶴岡」の活動を継承した新組織「FOOD SHIFT SHONAI」を起点にして、もっと広域的な交流へとつなげていきます。
食は、その地域の「アイデンティティそのもの」です。食が持つ情報量は非常に多く、地域の気候や地理的条件、市民性など、あらゆるデータが集約されている。食や農に向き合うことは、その土地に根づくアイデンティティを大切にすることに直結しています。
そうした日本各地の豊かな食文化を守るためにも、地方から声を上げていかなければなりません。その口火を切るのが、この鶴岡、ひいては庄内です。この12年で私たちが築き上げたものを、これからは他の地域にも波及させ、日本全体の根本的な価値観を変えていく。いまはまさに、その変革の段階に入ったと思っています。
ローカルガストロノミーという言葉ができて約10年。地方の有名レストランで美味しいものを出すだけではなく、古門シェフが言うような「翻訳者」としての役割をはたす料理人が各地に増えていけば、日本は必ず変わっていく。私たちは、日本を変えようと思っているので。
古門
そうだったんだ!?(笑)
小野
はい(笑)。そのために、私たちのチームが少しでも力になれたらうれしいですね。
この記事の内容は2026年10月26日掲載時のものです。
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Credits
- 取材・執筆
- 榎並紀行(やじろべえ)
- 写真
- 志鎌康平
- 編集
- 服部桃子(CINRA, Inc.)