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なぜ海なし県・山梨に寿司屋が多いの?その裏にあった「意外なルーツ」と独自の工夫とは
なぜ?の真相究明所
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「お寿司屋さんが多い県」と聞いて、みなさんはどこを想像するでしょうか? きっと多くの人が、新鮮な海の幸が手に入る海沿いの地域を思い浮かべるのではないでしょうか。
でも実は、そんなイメージをくつがえす「お寿司好き」な県が、海のない内陸部に存在するのです。
それが、山梨県!
人口あたりの寿司店数が全国1位*¹に認定されたこともあるという同県。
海のない山梨でなぜお寿司屋さんがこれほどまでに愛されているのでしょうか? その秘密を探るべく、今回は、山梨で大人気の寿司店「若鮨」と、老舗煮貝店「みな与」を訪れました。独自の海産文化がどのようにして山あいの地に根づき、発展してきたのか。その歴史を紐といていきましょう。
お寿司文化が発展したのは「海がない」からこそ? そのヒミツを知るべく山梨の老舗寿司屋「若鮨本店」へ!

若鮨で寿司を握る職人さんたち
海なし県の山梨でなぜ、お寿司がこれほど愛されているのか——?
その理由を探るべく最初に訪れたのは、1968年の創業以来、山梨のお寿司愛好家たちをうならせ続けてきた名店「若鮨本店(以下、若鮨)」さん!
老若男女を問わず広い人気を集めている若鮨の社長・池田眞一さんに、山梨ならではのお寿司文化とその歴史についてじっくりうかがいました。
—山梨県は、人口あたりの寿司店数が過去、全国1位*¹になったこともあると聞きます。やはり地元の方にとって、お寿司は身近な存在なんですか?
池田:そうですね。山梨の人にとって、お寿司は「何よりのごちそう」というイメージが強いと思います。
お祝い事があると、たいていの家庭がお寿司を取るし、冠婚葬祭など人生の節目の場面には、自然とお寿司が登場する。そんな文化が、今も根強く残っています。

若鮨本店 店主の池田眞一さん
—お寿司がごちそうとして根づいた背景には、どんな理由があるのでしょうか? 山梨は海に面していないですし、ちょっと意外な気もします。
池田:実はそこがポイントで、「海がない」からこそ、昔から海の幸への憧れやありがたみが強かったんです。
いまでこそ物流が発達して、海の幸も気軽に手に入りますが、昔はとにかく貴重なものでした。当時は、交通手段も限られていたので、鮮度が命の海産物を山梨まで届けることはきわめて難しかったんです。そのため海産物は高価で、庶民はめったに食べられなかったといわれています。
そんな当時の価値観が、いまも「お寿司=特別な日の“ごちそう”」という感覚につながっているんだと思います。ご高齢の方のなかには、「最期のごちそうに」と若鮨のお寿司を食べにきてくださる方もいるんですよ。

若鮨で寿司を握る職人さん

若鮨で提供しているお寿司。すべてのネタが大きめで美味しい
山梨のお寿司文化のヒント「魚尻線」とは
—なるほど。ただ、海のない県はほかにもありますよね。山梨で寿司文化がここまで発展したのは、どうしてなんでしょうか?
池田:鋭い質問ですね。長野だって、群馬だって、おなじく内陸に違いない。ただ、ひとつ明らかにいえるのは、特に甲府には、ちょっと特別な条件があったんです。
—特別な条件、ですか。
池田:流通網がまだ発展していない時代、いまのような冷蔵技術もなかったので、生魚を遠くまで運ぶのは大変でした。
そこで、「魚尻線(うおじりせん)」という考え方が生まれたんですよ。これは、夏でも生魚を腐らせることなく運べる限界点までの距離を指したものです。
たとえば江戸時代。当時、静岡県の駿河湾が海産物の名所だったのですが、そこで獲れたマグロを内陸部へ運ぶ際に、ちょうど魚尻線の限界点が、甲府だったんです。昔は「中道往還(なかみちおうかん)」と呼ばれる、富士山の西側を通るルートで、海産物を馬の背中に乗せ、運んできてきたのだそうですよ。

甲府と魚尻線のイメージ
池田:ちなみに、甲府のお寿司によく使われる甘い醤油「煮切り」も、鮮度が落ちつつある海産物をどうにかして美味しく食べようとした先人たちの工夫から生まれたものです。
魚は漁獲から時間が経つと、どうしても臭みが出てきてしまったり、本来の味が損なわれてしまったりします。そこで、味が濃くて甘い「煮切り」を使うことによって、海産物の劣化を目立たなくさせる効果があるわけです。

若鮨本店 店主の池田眞一さん
マグロ愛が根強い!甲府では刺身=マグロ
—甲府に運ばれてきた海の魚で、特に人気だったネタはなんですか?
池田:当時から主流だったのは、やはりマグロだったそうです。
甲府市はマグロ消費量で全国2位(2022年~2024年平均)*²になるほど、いまでもマグロが人気で、高齢者の方は特に、「お寿司といえばマグロだろう!」という感覚を強く持っているんですよね。

若鮨 池田眞一さん
昔、お客さんから「刺身を握ってよ」と言われて「どの刺身?」と戸惑ったことがあるんです。聞いてみたら、マグロの寿司が食べたいということらしく、山梨の人にとっては「刺身=マグロ」なんだなぁ、と驚きました。
—おもしろいですね! 甲府ならではのお寿司の食べ方はあるのでしょうか?
池田:甲府には昔から「甲州寿司(こうしゅうずし)」と呼ばれるお寿司があります。
いわゆる“江戸鮨”よりも大きいお寿司で、「煮切り」と呼ばれる甘い醤油を塗って食べるのが特徴です。これは、海のない山梨で、貴重な海の幸をできるだけおいしく、お腹いっぱい味わおうと工夫された、先人の知恵が詰まった食べ方なんです。
いまでも地元のスーパーでは、この“甲州寿司”スタイルで売られていることも多く、山梨の人々に親しまれ続けています。
甲州寿司のルーツは江戸前のファストフード?
池田:甲州寿司のルーツをたどると、そもそも江戸前(東京)のお寿司も、同じようにずいぶん大きなサイズだったみたいで。お寿司はもともと、火消しなどの作業現場で働く庶民が、屋台でさっと食べてお腹を満たすためのものだったんですよ。
—お寿司はもともと、庶民のファストフードだったんですね。
池田:そうなんです。やがて、当時人気だった歌舞伎役者にもお寿司が広まったのですが、顔に塗ったドーラン(白塗り)が割れないように、小さいサイズに工夫されて。
それがむしろ「かっこいい!」と庶民にも広まり、いまのお寿司のような小ぶりなお寿司になったそうですよ。

歌川広重『東都名所 高輪廿六夜待遊興之図』より、江戸の行楽地におけるお寿司の屋台(画像提供:太田記念美術館)

歌川広重『東都名所 高輪廿六夜待遊興之図』の全体像(画像提供:太田記念美術館)
ちなみにお寿司が「2貫」でひとつなのも、江戸時代にルーツを持っているのだとか。もともとは大きいサイズの1貫だったものを、歌舞伎役者があまり大きな口を開けなくとも食べられるよう、1貫を2つに分けて提供するようになったんです。それがいわゆる「粋なスタイル」として、いまも受け継がれているんですよね。

若鮨 池田眞一さん
芸能人がやっていることを真似したくなるのは、いまも昔も変わりませんね!
池田: 最近は、「世界中を探しても、お寿司を超える料理はないんじゃないか」と思うんです。
お寿司は、一人ひとりの好みに合わせたオートクチュール(贅沢な一点もの)です。お客さまそれぞれに合わせて、寿司職人は、食べたいネタを提供したり、シャリを小さめにしたり、ワサビを抜いたりします。江戸時代に、歌舞伎役者のために「2貫」で提供したのも、お客さまの好みに合わせた結果ですよね。
さらにお寿司は、調理も会話も提供も、すべて一人の寿司職人が担います。目の前でお寿司が握られていく過程を見たり、職人と話しながら食事をする時間が、お客さまにとってはエンターテイメントでもある。そんなスタイルこそが日本のおもてなし文化の象徴だと思っています。
これからもここ山梨で、そんなおもてなし文化やさまざまな工夫、さらには「粋なスタイル」を大切にしながら、お寿司を握り続けていきたいですね。

【若鮨さんのお話まとめ】
- 山梨は海なし県だからこそ、昔から海の幸への憧れがあり、「お寿司=ごちそう」という感覚が強い。
- 山梨県民から親しまれている大きな甲州寿司は、江戸時代に生まれたお寿司文化の名残。
どうにかして海産物を美味しく食べたい! 山梨の郷土料理「煮貝」には昔の知恵がつまっていた

山梨ではお寿司だけでなく、「あわびの煮貝」も郷土料理として有名なことをご存知でしょうか。
お次に、山梨ならではの海産文化についてさらに知るべく、煮貝発祥の店であり400年以上の歴史がある「みな与」さんへ!
11代目店主・飯島 彰(あきら)さんと、息子であり12代目の飯島 尚(たかし)さんが、山梨特有の海産文化の歴史について教えてくれました。
—伝統を守り続けてつくっている、山梨の郷土料理「あわびの煮貝」について教えてください。
彰:もともと保存食として発展したのが、「あわびの煮貝」です。
みな与では、あわびならではの豊潤な風味と歯ごたえを損なわないよう、秘伝の醤油タレでじっくりと漬け込んで作っています。

写真左から、みな与の11代目店主・飯島 彰さんと、息子であり12代目店主の飯島 尚さん
きわめてユニークな煮貝の運搬方法
—あわびの煮貝は山梨の郷土料理だと聞きましたが、どのような理由で郷土料理になったのでしょうか?
彰:山梨は海がないので、やはり海産物に憧れがありました。
あわびの煮貝は、江戸時代前期にルーツがあるのですが、それも海で獲れたあわびを、どうにかして美味しく食べたい、という思いから生まれたものなんです。当時は、山梨から80里(約314km)離れた南伊豆の「下流(したる)」と呼ばれる遠くの地域から、あわびを運搬していました。

みな与11代目店主 飯島彰さん
—江戸時代には、現代のような保存技術も当然ありませんよね。海から300kmも移動するとなれば、あわびの鮮度が落ちてしまうのでは……?
彰:まさにそうですね。当時の物流手段としては、「馬で運ぶ」方法が主だったといいます。山梨で食べるあわびも、新鮮なものを樽に入れてお醤油に漬け、笹の葉でフタをしたものを、馬の背中に乗せて運んできたのだそうです。

あわびの運搬イメージ。歩き続けるうちに馬の背中がだんだん温かくなるので、いまでいう「煮る」ような効果があったという。また、フタとして使っていた笹の葉には、抗菌作用があり、すべてが合理的な調理のようにはたらいていたそう。
—馬の背中で、煮る……。かなりユニークな食文化ですよね。
彰: 海がない山梨でも、なんとか海産物をおいしく食べたい。そんな心のあらわれとして、煮貝が生み出されたといえますね。

みな与 飯島彰さん
長時間お醤油に浸かっていたので、当時の煮貝はもっとしょっぱかったらしいです!
あたたかな県民性は、「無尽」のつながりによって生まれる
—あわびの煮貝は高級なイメージがありますが、どんな用途で購入される方が多いのでしょうか?
尚:やはり「贈答用」としての需要が大きいですね。
山梨県民はお祝い事を大事にしていて、何かイベントがあれば、人に贈り物をする文化が強いと感じます。なので、お誕生日やお中元の際に煮貝を買ってくれる人が多いですね。

伝統的なみな与さんの煮貝のパッケージ

1915年頃に店前で撮影された写真
尚:また、山梨には「無尽(むじん)」と呼ばれる地域独自の文化があって。そこで煮貝を購入してくれる方もいるんですよ。
—山梨独自の無尽とは、どんな文化なんですか?
尚:無尽を簡単に説明すると、「仲間同士でお金を積み立てて助けあう、互助扶助の文化」です。
山梨は四方を山に囲まれている土地なので、他の地域との関わりが少ないんです。それゆえに、身近な人々とのつながりが大切にされてきました。
無尽では、小学校の同級生や、幼なじみなどのグループが飲み会などで集まって定期的にお金を集めるんです。そして、集めたお金は結婚や出産、家の新築などのイベントがある際に、グループの一人が受け取れるんです。みんなでお金を出し合い、困った時にも、おめでたい時にも、平等にそのお金を使う。そんな文化がいまも残っています。

みな与12代目店主 飯島尚さん

みな与 飯島彰さん
無尽の集まりでは、男性は夜に飲み会をすることが多いですが、女性は無尽ランチをしているのをよく見ます。
—無尽に参加することで、地域の人のつながりが増えそうですね!
彰: やはり、無尽があってこそ、定期的な仲間との交流が生まれます。ご近所付き合い、地域の結びつき、同級生との関係性など、無尽がむすんでくれるつながりがありますね。
また、平時からの防災対策としても、「無尽」の存在は重要なのかなと。日頃から顔を合わせていないと、いざ災害が起きたときなんかに、公民館に集まってもみんなバラバラに動いちゃうと思うんですよね。地域としてのまとまりは、やっぱり「普段から」が大事です。

みな与 飯島彰さん
無尽はただお金が目的なのではなく、みんなで助け合おうとする意識が強いからこそ続いている文化ではないでしょうか。
尚:山梨県民にはやはり、人とのつながりやお祝い事を大切にするようなあたたかい文化があるように思います。
みな与の煮貝も、さまざまな人とのつながりによって愛してもらっていることを強く実感しています。だからこそ、これからも変わらず、おいしい煮貝をつくり続けていきたいですね。

【みな与さんのお話まとめ】
- あわびの煮貝は、海産物を食べるために江戸時代の人が編み出した知恵に由来している。
- 山梨特有の「無尽」を通じたつながりが、助け合いやお祝い事を大事にする県民性を生んでいるのかもしれない。
「海なし県」だからこそ生まれた豊かなおいしさ
今回お話を聞いた「若鮨」と「みな与」のみなさんの姿勢からは、山梨ならではの文化と愛情を感じられました。
海から離れているからこそ、人々は知恵をしぼり、手間をかけ、海産物の味を自分たちなりに楽しむ文化を育んできました。川魚などほかのもので代用するのではなく、「どうすれば海の幸をおいしく食べられるだろうか?」と、前向きに、工夫を重ねてきたのです。
海のない山梨県。そこには、海がないからこそ生まれた、独自のお寿司文化や海産物加工の伝統がありました。
*1 政府統計の総合窓口(e-Stat)「令和3年経済センサス-活動調査」
*2 総務省統計局「家計調査(二人以上の世帯) 品目別都道府県庁所在市及び政令指定都市ランキング(2022年(令和4年)~2024年(令和6年)平均)」
※イラストは全てイメージです。実際とは異なる場合があります。
この記事の内容は2025年6月12日掲載時のものです。
Credits
- 取材・執筆
- 三浦希
- 撮影
- 塩川雄也
- 編集
- 岩田悠里(プレスラボ)、牧之瀬裕加(CINRA, Inc.)