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震災を乗り越え『さくら祭り』15年ぶりの開催。その軌跡と桜がつなぐ人々の絆
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2025年4月4日、福島県浪江町の請戸川リバーラインで、『さくら祭り』が15年ぶりに開催されました。つぼみがほころび始めた桜並木のもと、屋台や音楽ステージ、そして夜空を彩る大輪の花火。震災と原発事故によって長らく中断されていた春の恒例行事が、かつてのにぎわいを取り戻しました。
桜並木の保全を続けてきた住民団体「絆さくらの会」や浪江町の商工会など、町民有志による実行委員会が中心となって準備を重ねてきた今回のさくら祭り。本記事ではその舞台裏を、副実行委員長を務めた小黒敬三さんをはじめ、お祭りに関わった方々の声とともにお届けします。
15年ぶりの開催となったさくら祭り。携わった人々の想い

15年の時を経て、浪江町の空に再び咲いた『さくら祭り』の花火
2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う福島県第一原子力発電所事故の影響で、全町約21,000*¹人の町民が避難を余儀なくされた浪江町。震災から14年が経ったいまも、町の東側の大部分が帰還困難区域に指定されていて、もともと住んでいた場所に戻ることができない町民も多くいます。
【浪江町とは】
福島県双葉郡に位置する太平洋沿いの町。福島第一原発から町の最も近い地点は約4kmで、震災時に全町避難を経験。震災前は約2万人が暮らしていましたが、現在浪江町で暮らす人口は約2,200人*²となっています。(*²参照:2025年3月末現在)
インフラの再整備も依然として十分とはいえず、特に病院設備などがまだ不足している状況は、高齢者の帰還をためらわせる要因のひとつとなっています。そんななか、いまの浪江町を中心となって盛り上げているのは、若い世代の元町民や、新たに浪江町に移り住んできた人々だそうです。
厳しい東北の冬を乗り越え、春の訪れを告げる桜のつぼみがほころぶ頃――。
今回(2025年)、15年ぶりの開催となった『さくら祭り』では、かつてのように花火の打ち上げや桜のライトアップ、道中の鯉のぼりアートやキッチンカーなどの出店に加え、「若い世代」によるパフォーマンスも目立ちました。

浪江町新名物「なみえ焼そば」ののぼり

商工会青年部がなみえ焼そばを販売している様子

古屋かおりさんと西健志さんのパフォーマンス

福島県浪江町のオリジナルソング “いくどはぁ★なみぃ”を歌ったsatoko & satomi さん
さくら祭りのフィナーレでは、夜桜を背景にたくさんの花火が打ち上がりました。あいみょんの“桜が降る夜は”や、ケツメイシの“さくら”など春を彩る音楽に合わせて、桜と花火が共演。会場の人から大きな拍手が湧き起こりました。
そんなさくら祭りに集まった人たちは、何を感じ、どんな時間を過ごしたのか。開催に関わった地域の人と実行委員会の立場から、それぞれの目線で見つめたお祭りへの想いを聞いていきます。
浪江町商工会女性部・渡邉さん「人が集まるのはやっぱり“地元愛”があるから」
今回さくら祭りの裏側を支えた一人が、浪江町商工会女性部の部長、渡邉 幸さんです。

浪江町商工会女性部・渡邉さん
女性部で提供していた甘酒のブースは、お祭りの開始早々に売り切れるほどの盛況ぶりでした。準備の段階から多くの人が力を合わせ、いまは町外に暮らしている元町民の人たちも、わざわざ手伝いに駆けつけてくれたとのこと。「最初は、町内にいる人たちだけでやろうかと思っていたんです。でも、町外に移住した人たちも来てくれて。それって、やっぱり“地元愛”だなって思います」と渡邉さんは語ります。

浪江町商工会女性部のみなさま
渡邉さんは、震災前のさくら祭りで、80歳を過ぎた近所のおじいちゃんがこぼした言葉をいまでもよく覚えていると話します。
「桜の花がたくさん咲いていて、花火も一緒に見られて、おじいちゃんが『これだけ長生きしてきてよかった、こんな歳でこんな景色が見られるとは思わなかった』って、すごく嬉しそうに話していたんです。だから、今回のさくら祭りの再開で、あのおじいちゃんと同じような気持ちを抱いている人もいるんじゃないかなって思います。」
震災と原発事故から14年が経ったいまも、浪江町に戻りたくても家庭や仕事の事情で戻れない人も少なくない、と言う渡邉さん。「みんな、やっぱり浪江町が好きっていう気持ちがあって、こうやって集まってくれるんだと思います。本当にありがたいことです」と話す言葉には、地元の人々をよく知るゆえの深い想いを感じました。
和太鼓パフォーマー・葛西さん「地域の人とつくり上げる太鼓の音に、純粋な力を感じる」
さくら祭りのステージで、圧巻の太鼓パフォーマンスを行った葛西啓之さんは、3年前に浪江に来た移住者です。葛西さんは、プロとして長年和太鼓の演奏活動を続けてきた経験を活かし、浪江町で「太鼓浪音(たいこ なみおと)」という地域のチームを立ち上げました。
【太鼓浪音とは】
2023年に発足した浪江町の和太鼓チーム。町内外のイベントで活動を行っており、メンバーは震災前から住んでいた人や移住者で構成されている。

和太鼓パフォーマー・葛西さん
「近隣の町には太鼓チームがいくつかあるのですが、浪江町には震災前から一つもなかったんです。でも、新しい移住者にちょうど何人か太鼓経験者がいて、『せっかくだから新しくはじめてみようか』という話になったんです」と葛西さんは話します。
太鼓浪音のメンバーには、太鼓を始めたばかりの初心者も多く、今回の演奏メンバーのうち約7割が、浪江で初めてバチを握った人たちです。年齢層は6歳から60代まで幅広く、浪江町に元々住んでいた人から移住者まで、地域の人々が一緒に活動しています。

太鼓浪音のパフォーマンス
そんな太鼓浪音のリーダーを務める葛西さんは、青森生まれの横浜育ち。東京で広告代理店に勤めた後、脱サラしてプロの和太鼓奏者に。その後、4年前に文化とまちづくりをかけ合わせる会社を設立し活動してきたなかで、浪江町と出会ったといいます。
「これまで、プロの和太鼓奏者としていわゆる資本主義の世界で活動してきましたが、地域の皆さんと一緒につくり上げる太鼓の音には、もっと純粋で本質的な力があると感じます」と葛西さん。
「いつかこの太鼓チームが、浪江町を代表する新たな顔になっていけたら」という言葉には、地域に根づいた音の力への実感が込められていました。
副実行委員長・小黒さんがめざす、若手のためのさくら祭り
「今年のさくら祭りが終わって、もう『ああ、任せられる』って思ったんです」
そう話してくれたのは、「絆さくらの会」会長であり、さくら祭りの副実行委員長を務めた小黒さん。震災前のにぎわいも、後の浪江町もよく知る小黒さんに、お祭り翌日にあらためてお話をうかがいました。

―今回、15年ぶりのさくら祭り復活となりました。どのような経緯で再び開催に至ったのでしょうか?
小黒:震災前は、請戸川沿いの桜並木で毎年さくら祭りを開いていて、多くの町民がこれを楽しみにしていました。でも、震災の影響で開催できなくなってしまって、「いつかまたやりたい」という想いは、ずっと心の中にあったんです。
ただ今回開催を決めた理由はそれだけではなく、一番大きかったのは「若い人の横のつながりをつくりたい」という気持ちでした。
浪江町には、震災前から住んでいた住民に加えて、最近は新しく移住してきてくれた若い人も多いんです。彼らはこのなにもない浪江で、音楽やダンスのサークルを立ち上げたりして、新しいコミュニティをつくり出そうとしているんです。それを今回のさくら祭りという手段でひとつにつなげられないかと考えました。


震災前のさくら祭りの様子がまとめられている写真アルバム
―昨日さくら祭りがふたたび開催されましたが、いまの率直な感想をお聞かせください。
小黒:来てくれた人たちが、みんな笑顔でね。「よかったね、来年もやってよね」と口をそろえて言ってくれたのが何よりもうれしかったですね。
そのうえで、改善点もいろいろ発見できたのが良かったです。チラシをもっとわかりやすくしようとか、会場案内の看板も必要だなとか。15年ぶりの開催なので、以前どうしていたかっていうのは、結構忘れちゃっていました(笑)。それでも、まず祭りを再スタートできたことが大成功といえると思います。
―先ほどのお話にもありましたが、今回のさくら祭り実行委員会には、若い世代の方も多く参加したとうかがいました。
小黒:そうなんです。震災前のさくら祭りは、どちらかというと古くからの町民が中心になって動かす行事でした。打ち合わせをするってなると、街の施設を借りてみんなで集まって……っていうやり方だったんですよね。
でも今回は、若い実行委員が多かったこともあって、準備のやり取りはほとんどメッセージアプリで。誰かが「この件、どうなってましたっけ?」と投げかけたら、みんな返信が早い早い(笑)。あっという間に話がまとまっていくので、私なんてスマホでアプリの通知を追いかけるのに必死でした。

―結果、若い方々が中心になってさくら祭りが無事に開催できたと。
小黒:そうですね。もう昨日のみんなの働きっぷりを見て、「ああ、もう浪江町は大丈夫だな。若い人たちに任せられる」と思いました。
今回は15年ぶりの再スタートということで、もともとのさくら祭りを知っている私たちが中心となって場所をつくってみましたが、そこからはもう若手がメッセージアプリを活用して、自分たちで率先して動いてくれました。今日(※さくら祭り翌日)も朝からアプリが動いていて、「花火のガラ拾い(花火を打ち上げたあとの燃えカスや玉皮拾い)をやります!」って誰かが言いだして、みんなで河川敷に集まってくれて。本当に頼もしいなと思います。
桜がつなぐ、浪江のこれまでとこれから
―小黒さんは生まれも育ちも浪江町。さくら祭りは昔からずっと続いてきた行事だったのでしょうか?
小黒:実は、以前さくら祭りは一度途絶えたことがあるんです。さくら祭り自体は、私が若い頃から商工会を中心にずっとやっていたのですが、30年前くらいに商店街の衰退とともに協賛金が集まらなくなり、自然消滅してしまって。
お祭りをやっていた頃は、桜の木の手入れも業者にお願いしていました。でも、お祭りがなくなってからはそれもやめてしまって、10年くらい経ったんです。
―ふたたび桜の手入れをはじめようと思ったとき、どんな想いがありましたか?
小黒:桜の木って手入れをしてやらないとどんどん荒れてきてしまうんですよね。剪定をサボっていたから、花もほぼ咲かなくなっちゃって……。でも、桜ってなんだか特別でしょう。福島は冬が厳しいけれど、ようやく春がきたって思える、そんな花です。
それで、私を含む当時の商工会青年部OBたちが集まって、我流で手入れをはじめました。その時に集まった人たちで作ったのが、いまの「“絆”さくらの会」です。少しずつ花が戻ってきて、さくら祭りも復活させることができました。

さくら祭りで「絆さくらの会」のイラストが後ろに描かれたハッピを着ていた小黒さん

今回のさくら祭りの配布チラシ
小黒:だから今回またさくら祭りが途絶えてしまったあとも、「もう一度やりたい」という気持ちはずっとあったんです。ただ、あのとき「若手」だった私たちも、もういまでは私くらい、いやそれ以上の年齢になってきている。そうなると、なかなか高齢の人はいまの浪江に戻ってこれないのかもしれませんね。
―高齢の方が浪江に戻ってこれない理由としては、どんな原因が大きいのでしょうか。
小黒:もともと震災前の浪江は100年前から「コンパクトシティ」なんていわれるほど暮らしやすい街だったんです。田舎だけど、中心部に行けばなんでも揃うし、病院やクリニックもたくさんあった。
でも、いまは車を使わないとどこにも行けないし、医療体制もまだ整っているとはいえません。そうなると、特に高齢の方にとっては、戻るのが難しい環境なんですよね。

―そんな状況のなかで、浪江町は今後どのような街になっていってほしいと思いますか?
小黒:人口を急に増やすことは難しいと思うけれど、やっぱり昔のように「ひととおりなんでも揃っている街」になったらいいよね。あと最近は、浪江町に移住してきてくれる人も増えていて、若い人たちに声をかけたら、さくら祭りのようなイベントを自分たちの手で動かしてくれる。そうやって地元が盛りあがっていく姿を、たくさんの人に見てほしいなと思います。
今回のさくら祭りには、東北を中心に多くのメディアが取材に来てくれました。その放送や新聞を見た元町民からも、たくさん連絡をもらって。「ああ、浪江町は復興しているんだ」って思ってくれたら、きっと元の町民も浪江に戻ってきてくれるのではないかと信じています。

さくら祭りのフィナーレで、ご当地ヒーローチーム・なみえアベンジャーズと「来年また会いましょう!」と挨拶をした小黒さん
若い世代も、元の町民も「住んでいたいまち」に
震災の復興が進む浪江町では今後、大規模な再開発も予定されています。浪江駅周辺には、建築家・隈研吾さんがグランドデザインを担当した施設が建設されるなど、地域コミュニティ活動の推進や新たな雇用・産業の創出が期待されています。
浪江町が復興の理念に掲げる「夢と希望があふれ 住んでいたいまち 住んでみたいまち」に向け、一歩一歩あゆみを進めている最中。そんな浪江町に春の訪れを知らせるさくら祭りが復活したことに、大きな第一歩を感じさせられました。
*¹ 浪江町「【初めての方へ】すぐわかる浪江町(なみえまち)の現況」より
*² 浪江町「浪江町のいま」より
この記事の内容は2025年6月3日の掲載時のものです。
Credits
- 取材・執筆
- 山口真央
- 撮影
- 佐藤翔
- 編集
- 牧之瀬裕加(CINRA,Inc.)