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富山市岩瀬の美しき再生。食とクラフトの街を「つくりあげる者たち」が語り合う

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近年、少子化や過疎化の影響で、かつてにぎわっていた地域の商店街もシャッター街へと変貌してしまうことは珍しくありません。

富山県富山市の岩瀬地区(以下、岩瀬)も、そのような街のひとつでした。富山駅から富山地方鉄道富山港線で約20分の距離にあり、北前船の港町として栄えたこの地は、当時の面影を残す歴史的な建物が連なり、「日本らしさ」を感じるエリアです。

いま、その岩瀬が新たな賑わいを見せています。一時は閑散とした風景が広がっていましたが、江戸時代から明治時代にかけて築かれた古い建物を活かし、街のリノベーションを実施。現在では、風情ある飲食店やアートギャラリーなどが軒を連ね、多彩な感性や志を持つ人々が集まる場に。ミシュランガイド掲載店も複数誕生し、全国から食通やクリエイターたちが足を運ぶ注目の街へと変貌を遂げたのです。

「大それたことをしているわけじゃないですよ。自分と家族、社員とその家族の幸せをつくりたいと思ってやってきました」。そう語るのは、桝田酒造店・5代目当主で、岩瀬まちづくり株式会社・社長の桝田隆一郎さん。2004年に岩瀬まちづくり株式会社を設立し、移住者を迎え入れ、故郷・岩瀬を「食とクラフトの街」として発展させるべく尽力してきました。

岩瀬へ移住する人は、どのような想いを抱いてやってくるのか。そして、なぜ岩瀬という街が注目されるのか。

インタビューは、桝田さんに加えて、岩瀬に移り住んだお二人、蕎麦と日本酒が楽しめる「酒蕎楽 くちいわ」店主の口岩倫彦さん、富山の新鮮な地魚が味わえる「ねんじり亭」店主の三浦幸雄さんを交えた座談会からスタートします。

桝田酒造店

明治26年創業・桝田酒造店

岩瀬の街並み

岩瀬の街並み。富山駅から岩瀬に伸びる電車、富山地方鉄道富山港線は、かつてJRが運行していた鉄道路線を富山ライトレールが引き継ぎ、路面化して開業(現在は富山地方鉄道が同路線を運営)。さらに、富山駅の南側を走る既存の路面電車と接続されたことで、南北に分断されていた路面電車網がひとつにつながり、交通の利便性が大きく向上した

岩瀬の街に魅せられて移転。リーダーの「来てほしそうな目」に惹かれて

─近年、岩瀬は食とクラフトの街として注目を浴び、移住者も増えはじめています。口岩さんは桝田さんとの出会いをきっかけに、2022年に岩瀬へお店を移しました。移転を決めた理由を教えてください。

口岩:一言でいうと、同じ富山県内でも岩瀬がワクワクした場所だと思ったからですね。僕は2009年に富山県の東端に位置する朝日町で「酒蕎楽 くちいわ」を創業したのですが、社長(桝田さん)とはじめて会ったのは、2018年頃、岩瀬で開催されていたイベントやパーティーに参加するようになった頃でした。

岩瀬の街にはまだ僕の知らない世界があって、これまでとは異なるかたちで自分のスキルや人間性を高めるチャレンジができる場所だと感じました。自分の気持ちが湧き立ち、この地で店を開いたらどうなるのかを考えはじめるようになったんです。

口岩倫彦

酒蕎楽 くちいわ店主の口岩倫彦さん

─ワクワクする気持ちが移転の決め手になった、と。

口岩:それがひとつの理由です。僕が営業していた朝日町は、人口が減少し、高齢化が進んでいる地域。そんな環境でも、2時間も行列に並んでくださる方がいるほどの人気の蕎麦屋を営んでいたという自信もありました。

しかし、コロナ禍になり、自分と向き合う時間が増えました。生きていると自分の力ではどうにもならないことが起こる。いくら計画を立てても思いどおりにいかないことがある。ひたすら考えるなかで、やりたいことをやらずに人生を終えるのは嫌だと思うようになりました。

そんな状況でも、岩瀬の人たちとは交流を続けていたんですが、社長や岩瀬の街の人たちはすごくポジティブだったんですよ。「仕方ないよね、だったらこんなことしてみようか」と、前向きに考える人ばかりで、一緒に過ごす時間が本当に楽しかったんです。それまで僕のなかには「朝日町でのし上がるんだ」という気持ちがありましたが、岩瀬の人たちとかかわるうちに、「いろいろな選択肢があるのかもしれない」と考えるようになりました。

─三浦さんにもお聞きします。三浦さんは2023年に富山県魚津市から岩瀬にお店を移転していますね。桝田さんとはそれよりも前、30年以上の友人関係だったそうですね。

三浦:魚津市でお店をはじめたのは、日本酒をきっかけに富山の魅力を知ったことでした。こんなにおいしいお酒があるのかと驚き、妻の出身地ということもあって、魚津市でお店を開くことにしたんです。敬次郎さん(先代、桝田酒造店4代目当主)から社長にバトンタッチした1988年か89年頃に、岩瀬へ遊びに行ってお話をするようになってからつき合いがはじまりました。

その当時、社長から「岩瀬に来ない?」と声をかけてもらっていました。ただ、その頃はまだ岩瀬に移ることは考えていなくて、温泉好きなこともあって、「温泉ができたら来てもいいかなあ」なんて冗談でお茶を濁していたんです。

三浦幸雄

ねんじり亭店主の三浦幸雄さん

─そうした関係が続くなかで、岩瀬に移ったきっかけは何だったのでしょう?

三浦:僕もコロナ禍が影響しています。お店が暇になってしまい、岩瀬で仲間たちとお酒を飲んでいたとき、僕が酔っぱらいながら「そろそろ岩瀬に移るか」とつぶやいたんです。それを同席していたみんなが聞いていて、社長が「じゃあ、お店をつくりましょうか」と。

富山はほかの地域と比べても、魚が有名な場所です。富山の魚は、品質が優れているうえに種類も豊富。ただ、その魅力を存分に活かしているお店はまだ多くないと感じていました。

素晴らしい素材を活かして、富山の魅力を発信したい。年齢も70歳を超え、そろそろ自分の好きなことを追求してもいい時期なのではないか──それには岩瀬が最適だと考え、一気に移転を進めました。

─桝田さんは、口岩さんや三浦さんに「岩瀬に来てほしい」というラブコールを送っていますが、当時のお話をお二人からあらためて聞いてどう感じますか?

桝田:ラブコールというか、僕からはほんの1、2回しか誘ってないと思うんだけどね(笑)。でも、いま振り返ると、「口岩くんが岩瀬に来てくれないかなあ」「ねんじりさん(三浦さん)、近くにいてくれないかなあ」という目をしていたんだと思います。

桝田隆一郎

桝田酒造店5代目当主/岩瀬まちづくり株式会社 社長の桝田隆一郎さん

岩瀬に来てくれた人たちの多くが「僕に誘われた」って言ってくれるけど、自分としてはそんなに誘ったつもりはないんですよ。ただ、「来てほしいなあ」という顔をしているんでしょうね(笑)。

あと、仲間たちとお酒を飲んでいるとき、僕の想いを周りの人たちが感じ取って、全国で活躍する方に声をかけてくれることも多いですね。

桝田酒造店の囲炉裏

囲炉裏をかこんで座談会。口岩さんや三浦さんが語るなか、桝田さんが火をおこす

─自らあまり誘わない、という桝田さんが口岩さんや三浦さんを誘って、お二人が実際に岩瀬に移ってきたのはとても興味深いです。たとえば口岩さんは、すでに朝日町で人気店を営む店主でした。こうした方を桝田さんはなぜ岩瀬にお誘いするのでしょうか?

桝田:僕から見て、「もっと輝いてほしい」と思ったからですね。すごく能力があって情熱を秘めた人だからこそ、もっと広い世界に出て挑戦するチャンスをつかんでほしい、と。

本人たちがどう思っているかはわかりませんが、日本でもっと名を広められるし、世界を相手にしても活躍できると思うんです。いまの岩瀬なら、もっと輝ける場を提供できる。そんなことを感じて、誘っているのかもしれませんね。

街の魅力的な「点」が「線」になり、岩瀬の明日を育んでいく

─かつて営業していた地と岩瀬で、違いや変化を感じることはありますか?

口岩:岩瀬に移って一番感じたのは、客層の大きな変化です。朝日町は、なじみの常連さんが中心となって集まる場所でした。一方、岩瀬は「おいしいものを食べたい」「まだ知らない味を体験したい」といった、食にこだわる人たちが全国から訪れる傾向があります。

まさに「毎日が勝負」です。もちろん単純な勝ち負けがあるわけではありませんが、また足を運んでもらえるように、お客さんをどうやって「やっつけようか」、いかに満足していただくか、と日々創意工夫することが、岩瀬で働く喜びにつながっています。

料理に対する意識が高い方々と出会うことで、仕事の緊張感も増します。そして、この緊張感こそが自分自身を磨いてくれるんです。岩瀬で出会うお客さんや仲間たちとの交流が、新しいメニューや企画のアイデアにつながっていると感じています。

酒蕎楽 くちいわ

酒蕎楽 くちいわの店内

三浦:魚津で営業していたときは1,000円程度で気軽に飲んで帰るお客さんもいました。いまのように予約制で、お客さんの数を限定していたわけではありませんでした。

口岩くんと同じく、舌の肥えた方々が日々訪れるので、いかに満足していただくか、試行錯誤を続けています。

ねんじり亭

ねんじり亭の店内

─岩瀬には移住者が増え、全国から観光客が多く訪れます。口岩さん、三浦さんは街の変化をどう見ていますか?

口岩:岩瀬にはたくさんの「点」があり、それが「線」としてつながりはじめているのがおもしろいと感じています。たとえば、お昼に日本料理屋でランチを楽しんだあと、夜に「くちいわ」へ来てくださる方がいたり、夜に「くちいわ」を訪れた方が、翌日は岩瀬の別のお店を巡ったり。そんな流れが生まれています。

さまざまな飲食店やアートギャラリーなど、年々増えていく「点」はどれも魅力的で、それが岩瀬の強みになっているんじゃないでしょうか。意図的なものなのか偶然なのかはわかりませんが、社長がこれまで取り組んできたことが「線」としてつながってきたのだと思います。

桝田:僕は何もしていません。これまで「なんとなく」進めてきたことがいまの状況を生み出してきたんだと思いますよ。

口岩倫彦、桝田隆一郎、三浦幸雄

─桝田さんのなかにある「なんとなく」がどのようなものなのか。これはあとで詳しくうかがいつつ、お三方は、岩瀬が今後どのような街になるといいと考えていますか?

三浦:いま岩瀬に足りないものは宿泊施設ですね。夜、このあたりで食事をしたあと、みんな富山駅周辺の繁華街に行ってしまうんですよ。翌日に岩瀬へ戻ってきてくれることもありますが、ホテルなどの宿泊施設があれば、岩瀬の夜をもっと楽しむことができるし、夜も滞在できるようになることで、深夜も楽しめるバーなどもできるはずです。そこが課題だと感じています。

桝田:ホテルをやりたいと声をかけてくれる会社はたくさんありますね。現在も話が動いているところがあるので、具体化すればいいと思います。

口岩:僕は岩瀬で働く人たちが仕事終わりに交流できる場所も必要だと考えています。たとえば、いまは僕のお店の営業が終わると、そのまま社長や三浦さんなど仲間同士で僕の店に集まって、飲みながら雑談しているんです。これが気軽にできるような、夜遅い時間に空いているお店が増えるといいなと思います。

先ほども言ったとおり、岩瀬には魅力的な「点」がたくさんあります。街のさまざまな業種の人たちが仕事終わりに集まり、雑談し、岩瀬の未来を語る。こうした横のつながりを強くすることで、街をつくりあげる一つひとつの「点」も「線」になり、岩瀬の魅力をより発信することができると考えています。

こういったお話も含めて、同業者とイベントやパーティーをしたあと、アフタートークとしてみんなで雑談することがよくあります。これがとてもおもしろくて。

三浦:長いこと話すやつがいるんですよね。

一同:(笑)。

岩瀬の魅力は「なんとなく」日本を感じられるところ

─ここからは、桝田さんが岩瀬まちづくり株式会社を設立し、これまで取り組んできたことをうかがいます。岩瀬でのまちづくりの発端はどこにあったのでしょうか?

桝田:たとえば、岩瀬のまちづくりで私が思い浮かべるのは、スペインのサン・セバスチャンという港町です。岩瀬は日本のどこにでもあるような港町で、特筆すべき歴史もなければ、特筆すべき遺構もありません。サン・セバスチャンもヨーロッパのなかで同じような場所だったと思いますが、いまでは世界中から人が訪れるようになりました。発展をとげたサン・セバスチャンを見ていると「なんとかなる」と感じ、岩瀬も発展させられると思いました。

─「なんとかなる」と、街に発展する兆しを見出した桝田さんが、岩瀬に感じる魅力とは何でしょうか?

桝田:富山湾の恵みを中心としたおいしいものやユニークなクラフトがあることはもちろんですが、日本を感じられることですね。日本を感じられるというのは、単純に古いものがいいとか、そういう郷愁ではありません。これも言葉にするのは難しいんですけど、「なんとなく」日本を感じられる、ということですね。

桝田酒造店の蔵

桝田酒造店の蔵

─桝田さんが思う「なんとなく」とは?

桝田:たとえば、ピカソの感覚というものは、ピカソ本人にしかわからないわけですよね。ピカソが何を思っていたのか、本当のところは僕たちには理解できません。自分の「なんとなく」と、他人の「なんとなく」は当然違ってきますよね。

街から「なんとなく」何を感じるか。それについてひとついえるのは、街をつくるうえで重要なのは、外観ではなく“中身”だということです。外観はいかようにもつくれます。しかし、それよりも大切な中身は、その街に暮らし、街の魅力を育んでいく「人」であり、人によって築かれる「文化」や「風土」のはずです。

さらに、そうした中身は、その街の人々が交流し、互いに高め合うことでこそ育まれていくのだと思います。

桝田隆一郎

まちづくりとは「自分の身近な人を幸せにするために、当たり前を実行すること」

─岩瀬に多くの人が訪れるようになった理由のひとつとして、訪れる人それぞれが「岩瀬って、“なんとなく”いいな」と感じているのかもしれませんね。現在、多くの人が訪れるようになった岩瀬ですが、桝田さんはどのような考えでまちづくりを進めてきたのでしょうか?

桝田:まずは目の前のこと、自分の周りの幸せに目を向けて、ここまでやってきました。自分の家を建てるときの感覚に近いかもしれません。岩瀬は雪も降るし、交通も不便な場所ですが、そんな場所で、ただ自分の身近な人たちを幸せにしたいという想いが軸にあります。

ねんじり亭 酒蕎楽 くちいわ

ねんじり亭(左)と酒蕎楽 くちいわ(右)の外観。こうした建物は、まちづくりをはじめた当初、桝田さんが私財を投入して買い取り、リノベーションを施した

─まちづくりと聞くと、「地域社会のために」といった大きな視点で考えがちですが、桝田さんが自分や身近な人々の視点で取り組みを進めた結果、現在の岩瀬の姿があるのですね。あらためて、岩瀬が注目されるようになった転機は、過去のどの時期だったとお考えでしょうか?

桝田:「御料理ふじ居」の藤井寛徳くんやガラス作家の安田泰三くんたちが来てくれたことも転機でしたね。

富山を対象とした『ミシュランガイド北陸』は2016年と2021年の2回刊行されています。藤井くんは、2016年のミシュランの星を取れずに悔しい思いをしていましたが、努力を重ねた末、2021年にミシュラン二つ星を獲得しました。彼が料理に本気で向き合う姿勢は、岩瀬の街全体を引き締めてくれたと感じています。

また、安田くんはクラフトの世界で突出した存在で、生き方やお客さんへの接し方が本当に素晴らしい。その姿勢は、岩瀬にいる仲間たちにとってもいい影響を与えてくれたと思います。

最近の話をすると、2020年にはじまった『GO FOR KOGEI』(※)というイベントの誕生も大きなきっかけだと考えています。

このような工芸イベントを通じて、もともとの強みであった「富山の食」に加えて、アートやクラフトという新しい魅力も伝えられるようになり、おもしろい人々をさらに引き寄せることにもつながりました。

「『GO FOR KOGEI』をスタートしたときが、岩瀬が進化したタイミングだった」と、何年後かに振り返ったときに感じると思います。

※:アルチザン、クラフトマン、デザイナー、アーティストが集まり、多様な工芸と、隣接するアートを紹介するイベント。富山市岩瀬と金沢市東山という、伝統的な街並みが残る2つのエリアで開催している。

GO FOR KOGEI

『GO FOR KOGEI』公式サイト。竹俣勇壱 展示風景(tayo・石川、2024年)

もうひとつ転機という点では、コロナ禍をきっかけに、それまで世界に目を向けていた人々があらためて日本に注目しはじめたのも大きかったと考えています。特に都市部の人たちが、日本各地の魅力を再発見するようになりました。

感度の高い人たちが次々と地域にかかわることで、岩瀬をはじめとする各地域の動きも加速し、とりわけリーダーがいる地域では、さらなる進化が見られました。また、地域間の交流も生まれ、日本のローカルの魅力にさらに磨きがかかったと感じています。

─「もっと輝いてほしい」「身近な人たちを幸せにしたい」こうしたお話をとおして、岩瀬になぜ人が集まり、注目されるようになったのかが、桝田さんなりのリーダーシップとして少し見えてきたように感じました。街を活気づけるには、そうした自分起点の想いからでもいいものなのでしょうか?

桝田:いいのかもしれませんね。僕は当たり前のことをしているだけなんです。

おかげさまで、私は地元のほかの人たちよりは世界のいろいろな場所を見てきたと思いますし、さまざまな人と交流を深めるなかで視野も広がりました。だからこそ、岩瀬で育った子どもたちがまた戻ってきてくれるような街にしたいと思っています。やっぱり、本当に素晴らしい街になっていなければ、帰ってこないじゃないですか。

僕がやっていることは、実は何の変哲もないことで、身の周りの人が幸せになるように、自分にできることを当たり前にやっているだけ。でも、その当たり前を実行し続ける人は意外と少ないから、みんな僕のことを変わった人だと言うんじゃないでしょうか。

何も変わったことはしていないんですよ。 だって、僕はいつもリーバイス®のジーパンしか履かないし、ユニクロのシャツばかり着ているしね(笑)。

桝田隆一郎

この記事の内容は2025年5月13日の掲載時のものです。

Credits

取材・執筆
野村英之(プレスラボ)
写真
安井信介
編集
プレスラボ、CINRA,Inc.