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人口42人の集落に700人が集う『船浮音祭り』が19年にわたって続く秘密とは?
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毎年およそ700人が訪れ、音楽に耳を傾ける『船浮音祭り』。西表島の西端に位置する人口わずか42人の船浮集落に、これまでKiroroの玉城千春さん、MONGOL800のキヨサクさん、元THE BOOMの宮沢和史さんなども登場したことがある一大イベントです。
発起人は、船浮出身のミュージシャン・池田卓さん。「音楽で集落に恩返しを」という想いから、19回にわたってこの音楽イベントを続けています。
今回は池田さんと、船浮に移住し『船浮音祭り』の実行委員を務める小田切友輔さんにインタビュー。また、船浮出身で幼い頃から『船浮音祭り』が楽しみだったという石垣大貴さんからもコメントをいただきました。『船浮音祭り』が地域に根づいた背景に迫ります。
アクセス手段はフェリーのみ。西表島「船浮集落」とは
「陸の孤島」「離島の離島」——そんな通名を持つ西表島の船浮集落。由来はアクセスの厳しさにあります。
まず、沖縄県の離島のひとつである石垣島からフェリーに乗って西表島へ。メインの港・上原港からバスやタクシーに乗り、道路が通る西の最終地点・白浜港へ。そこからさらにフェリーに乗り継いで、ようやく船浮集落へと辿り着きます。
石垣港から上原港まではフェリーで50分ほど。上原港から白浜港まではバスやタクシーで約30分。そこから定期船に10分ほど揺られると船浮に到着する
現在、集落の住民は42名。そのうち小学生が2名、中学生は1名。高校がないため、子どもたちは親元を離れて島外へ進学します。
「ただ、不便だからこそ残っている豊かさもある」。そう話すのは、船浮で生まれ育った池田卓さん。「不便な場所で生きていくために、住民はより強く結びつき、協力し合わなければなりません。濃密な人間関係のなかで生まれた愛情や知恵を受け継ぎながら、島の人々はたくましく生活しています」。
そんな船浮で池田さんを中心に開催される音楽イベントが、『船浮音祭り』です。
「キャッチボールの相手がいない」からはじまった音楽のキャリア
—池田さんが『船浮音祭り』(以下、『音祭り』)を開催したきっかけについて教えてください。
池田
島*の知名度を上げて、故郷に恩返ししたいと考えたのが、『音祭り』をはじめたきっかけです。
僕は、この島に生まれた使命感と誇りを勝手に感じているところがあって。というのも、僕が生まれた1979年は、島が廃村の危機にあった年なんです。もちろん子どもも少なく、学校も廃校一歩手前という状況。そんななかで8年ぶりの島の男の子として生まれた僕は、地元新聞に「船浮に鯉のぼりが上がった」と取り上げられたくらい喜ばれたんです。
* 船浮集落のこと。沖縄では自分の出身地のことを「島」と呼ぶことも多いそう。
池田卓さん
—船浮待望の子どもとして生を受けたんですね。その後、池田さんはどのように音楽と出会うのでしょうか。
池田
幼い頃から野球が好きだったんですが、子どもが少ないので、野球どころかキャッチボールの相手もなかなか見つからなくて。いつしか父が持っている三線やギターを、自分でも触ってみるようになりました。
それから中学で三線コンクールの賞を獲ったことや、19歳のときに西表島の芸能祭へ出たことをきっかけに、歌手をめざすようになったんです。芸能祭で歌ったオリジナル曲『島の人よ』を自費でCD販売した21歳の頃から、本格的に音楽で生きていこうと決めました。
2000年にリリースした『島の人よ』ジャケット写真。芸能祭で「CDはありますか?」と聞かれたこともあり、2年後に発売した(画像提供:池田卓さん)
池田
僕は音楽で必ず島に恩返しをしたいとずっと考えていて。だから最初から、数年間は島を離れ沖縄本島で音楽活動に集中し、一定の露出をつくって島に戻ると決めていました。離れているあいだも、島では休校・廃校・廃村の危機が何度もあって。なんとか船浮の知名度を上げて、一人でも多くの人に船浮に来てほしいと思い続けていましたね。
本島で活動していた頃には県内のCMに出させてもらうこともあり、徐々にみなさんに知ってもらえるようになりました。そして2007年、27歳の頃に1回目の『音祭り』を開催。当時は本島に住んでいたのですが、5回目を開催する頃には船浮に拠点を戻し、島のためにできることを増やしていきました。
音楽の力で島を盛り上げるため、自費で『音祭り』を開催
—1回目の『音祭り』の手応えはいかがでしたか?
池田
初回にもかかわらず300名もの方が来てくれて、うれしかったですね。島の伝統的な祭りである『豊年祭』は、じいちゃんばあちゃんが頑張ってつないでくれているけれど、人が減るなかで形骸化している面もありました。だから、若者がメインとなって新しいお祭りを開催し、島を活気づけたかったんです。そんな様子に目新しさもあったのだと思います。
ただ、自費で開催したので潤沢な資金があるわけではなく、11月に行われる島の『節祭(しち)』という伝統的な祭りのあと、舞台を残しておいてもらい、それをステージにして開催。飲食も島の人にお願いして、イノシシ料理など地域の食材を使ったもののみを提供しており、いまあるもののなかで手探りで行いました。
1回目の開催後、次からは島にとってベストな時期にしたいと思い、2回目から現在までは、4月の第3週土曜日に開催しています。というのも、4月は春休みとゴールデンウィークにはさまれていて、観光の閑散期にあたるんです。気候としては「うりずん」と呼ばれる、梅雨入り前のカラッとした晴天が続く過ごしやすい時期になるのに、なかなか旅行者に来てもらえない。ほかの離島の祭りを巡ってみたところ、その多くが閑散期にうまくイベントを組み、観光客を呼ぶ仕組みをつくっていました。この時期に『音祭り』をしたら民宿にも人が来て、船浮のみんなに喜んでもらえると思ったんです。
船浮集落にあり、西表島屈指の美しさを誇るイダの浜(画像提供:池田卓さん)
池田
また、船浮は離島のなかでもとくに離れた場所なので、学校の先生が希望して来てくれることが少ないんです。結果として、臨時採用の1年限りの先生が多く赴任しています。そんな先生方にできるだけ早く地域に馴染んでほしいという想いもあり、4月開催を続けています。地域に愛着をもって、1年間楽しく過ごしてもらえたらうれしいですよね。

石垣
『音祭り』は島に一番人が集まる日で、本当に賑やかですよ。子どもの頃はその様子を見て、「東京ってこんな感じなのかな」なんて想像していました。
『音祭り』を通して、島の人から「与えられている」ことに気づいた
—小田切さんはいつから『音祭り』の運営に入られたのでしょうか。
小田切
2018年、12回目の開催のときからです。実は、先に両親が船浮へ移住しまして。僕も2016年に西表島へ移住して別のエリアでツアーガイドをしており、船浮へも足を運ぶようになりました。『音祭り』を手伝ったことをきっかけに、池田さんから「船浮に住まないか」と誘われ、2018年に移住。船浮には山もあり、海もあり、大自然のなかで暮らせるとても魅力的な場所でしたから。
はじめて『音祭り』に参加したときは、決してアクセスのよくない船浮に時間とお金をかけてやってきて、音楽を楽しみ、笑顔になって帰っていく人たちの姿にぐっときましたね。
僕がツアーガイドをしている理由は、自然と触れ合うことや人の笑顔を見ることが大好きだから。『音祭り』には自分の好きなことが揃っていると感じ、運営に携わるようになりました。現在、運営は5、6名ほどの実行委員を中心に行われています。
小田切友輔さん
—1回目の開催後は、順調に進んでいったのでしょうか?
池田
そんなことはないですね(苦笑)。3回目までは自費で開催していたので、資金繰りが本当に大変で。
また、島の人たちのために頑張っているお祭りなのに、みんなに想いが伝わらず、衝突もよく起こっていました。5回目くらいまでは、「本当に今年も開催するのか?」と訝しがられることも多かったですね。

石垣
『音祭り』がはじまった当初はまだ子どもだったので、「県外からこんなに人が集まるんだ」「プロの歌手を見られて楽しみ」というワクワクと驚きしかなくて。まさかその裏で、卓さんの苦労があったなんて、はじめて知りました……。
—池田さんはそのような苦労をどうやって乗り越えたのでしょう?
池田
島に元気になってほしい、島に一流の音楽を届けたい。そんなふうに、「島に与えたい」と思って奮闘していたのですが、あるとき、「与えられているのは僕の方じゃないか?」と気づいたんです。
会場の配置やメニューを決めるときなど、みんな最後は僕に聞いてくれるんです。「ミュージシャンの池田卓」ではなく、船浮で育った一人の青年の「やりたい」という気持ちを尊重して支えてくれている。だからこそ、『音祭り』が実現できていると気づきました。
というか……僕が与えたいと思っていた豊かさは、もうすでに島にあったんですよね。有名なミュージシャンはいないけれど、じいちゃんばあちゃんが心を込めて神様に捧げる音楽はすでにある。祭りで子どもたちに希望を与えたいと思っていたけど、子どもたちの笑顔はすでに輝いている。島に結束力を、なんて意気込んでいたけれど、人々はすでに協力し合って生きている。
「僕の方が島から与えられている。『音祭り』をさせてもらっているんだ」。そう気づいて以来、自分自身の気持ちも楽になりましたし、不思議と島の人たちとの衝突もなくなりましたね。

石垣
僕も一度は島を出たんですが、離れてあらためて船浮のよさを実感し、戻ってきました。船浮の人はものごとのとらえ方や言葉が前向きで温かい。人との距離感も近く、そのつながりがとても心地よいです。
続けていくと、島外からもサポートが集まるように
—『音祭り』は今年で20回を迎えますが、島ではどんな存在になっていると感じますか?
小田切
もう「船浮に『音祭り』はあって当たり前」という雰囲気ですね。集落の人たちも楽しみにしていて、「今年は誰がゲストで来るの?」「あの年の『音祭り』が特に楽しかったんだよね」なんて話しかけられることも少なくありません。
船浮には、劇場も映画館もライブハウスもないですから、テレビで見るような歌手が集まって来てくれるのを皆が楽しみにしています。
(画像提供:池田卓さん)
—集落には子どもたちも暮らしていますよね。彼らも『音祭り』にかかわっているのでしょうか。
池田
当日、子どもたちにはかき氷の販売を手伝ってもらっています。「自分たちも、このお祭りを支えている一員なんだ」と感じてもらいたいなと思って。ひいては、「自分の島はこんなに多くの人に愛されているんだ」という地元への愛着や誇りにもつながっていってほしいと思います。
ちなみに売上金は、子どもたちが島外で大会などに出るときの遠征費として積み立てています。自分たちで頑張って稼いだお金が、自分の成長を支える資金になる。その仕組みは子どもの自立心も育むのではないかなと思います。
—『音祭り』に対する、集落内外の方たちのサポートにはどのようなものがありますか。
小田切
毎年、実行委員は挙手制で募集しています。必要な人数に満たない年もありますが、「こんな年もあるさね」という気持ちでいます。ただ、主力だったメンバーも歳を重ね、これまでのように運営するのはなかなか難しいこともでてきました。
そこでここ2、3年は隣の集落の青年会に協力してもらい、ときには僕たちも彼らのお祭りを手伝うというように、労働力を貸し借りし合って、なんとか運営しています。
池田
サポートという意味では、16回目の『音祭り』から寄付してくださる方々が現れたことも大きいですね。これまでは公民館と連携して島の施設を活用させてもらったり、実行委員会をつくって協賛を募ったりしてやりくりしていたのですが、そこに寄付金が加わって運営の基盤がより強固になりました。
ほかにも、島外から来る方が物販を手伝ってくれることも多くなって。『音祭り』をきっかけに、定期的に船浮へ足を運んでくれる人も増えてきています。これは本当にありがたいことです。
規模拡大をめざさない。「島でできる限り」という選択
—サポートも充実してきて『音祭り』も盛り上がり、今後さらに参加者が増えていきそうですね。
池田
それが『音祭り』は、規模をいま以上に大きくすることをめざしていないんですよ。会場までの交通手段や宿、当日提供できる食事などを考えても、いまの700人が最大かな、と思っています。
小田切
『音祭り』が船浮の魅力になっているのではなく、もともと船浮は魅力的な場所だと思っています。ただなかなか行けない場所ではあるので、『音祭り』が「一度船浮に行ってみよう」というきっかけになっているのかなと。「船浮あっての『音祭り』だ」という意識が大きいですね。だから、いまの島の力でできる限りのことをする、という気持ちで運営しています。
池田
テレビやラジオなどで『音祭り』のことを広めようとしてくださる出演者の方たちにも支えられています。自分たちの気づかないところでどんどん知名度も高まっていて、回を重ねるごとに船浮の魅力が多くの人に伝わっていく、いい循環ができてきたと実感しています。
船浮の人にとっても、外から見ても『音祭り』は年間行事のひとつになっていると感じます。そう自然に感じられることが、『音祭り』を続けてきたひとつの成果だと思いますね。
—あくまで主役は「地域」、先ほど池田さんがおっしゃった「島に与えられている」考え方が根底にあるからこそ、これほど長く続き、地域に根づいたのでしょうね。
池田
もともと「島を盛り上げたい」「過疎化を食い止めたい」という想いから、何があってもやめないつもりではじめた祭りでしたから。
長く続けていれば大変なときもある。でも、それ以上にうれしいこともあります。以前、『音祭り』のあとに清掃をしようと浜に行ったら、そこにゴミはなく、来場者の方が砂浜に「卓、ありがとう」というメッセージを書いてくれていたことがあって。そんなみんなの温かさにも支えられて、ここまで続けてくることができました。
『音祭り』は手段のひとつ。すべては「船浮のため」
—今後、船浮集落にとって『音祭り』を、どんな存在にしたいと考えていますか?
小田切
もちろんいまもそうですが、島外へ船浮の魅力を発信する手段にして、この集落がなくならないように踏ん張っていきたいです。
島の子どもたちが、僕のことをすごく慕ってくれているんです。そんな子どもたちがいつか島を出て、「船浮に帰りたい」と思ったときに、帰ってこられるようにこの場所を守りたい。ちょっとおこがましいかもしれませんが……。でも、「いつでも帰ってきていいよ」と言い続けたいですね。
池田
ただ、どれだけ魅力的な島でも、やっぱり移住までしてもらうことは簡単ではないとも実感しています。島の過疎化には、なかなか歯止めがかからないですから。
だからこそ続けていきたいし、僕たち島の人間が輝けるように頑張るしかない。魅力的なモノ・コトが船浮にはたくさんあります。そんな船浮に出会い、「自分たちもこのなかに入って暮らしてみたい、かかわってみたい」という人たちをつないでいけるよう、楽しくやっていきたい。すべては船浮のために、ですね。
この記事の内容は2025年4月9日掲載時のものです。
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Credits
- 取材・執筆
- 波多野友子
- 編集
- 岩田悠里(プレスラボ)、森谷美穂(CINRA, Inc.)